軍備計画
軍備計画
海軍
1930年代末になると、各国は日ソの武力衝突は時間の問題だと考えるようになっていた。
ただし、問題に対する解釈は様々だった。
西欧諸国の政治家や高級軍人は、半魚人の国家社会主義者と共産主義に狂った田舎者がシベリアの凍土で潰しいあいをしてくれるのなら、どうぞご自由にという立場だった。
しかし、東欧諸国はそうも言っていられなかった。
極東からソ連を牽制できるのは、日竜しかないからである。
1937年以降、日竜が提唱した防共協定というアンチ・コミュニズム・アライアンスにポーランドやバルト三国が参加したのは、あてになりそうなのが日竜しかなかったからだ。
西欧諸国は日和見を決め込んでいたし、ドイツは共産党と極右政党の国内闘争に忙しいためまるで頼りにならなかった。
それどころか、軍部が裏でソ連と手を結んでいるという疑惑さえあった。
ムッソリーニ・イタリアは西欧やドイツよりマシだったが、イタリア軍が精強だった時代は紀元前に終わっていることは広く知られていた。
世界帝国を自認するイギリスだけがソ連の軍拡と勢力拡張に対して、危機感をもって対応していた。
防共協定の保証人はイギリスだったと言える。
そのイギリスも斜陽の時代を迎えており、様々なものが不足するようになっていた。
その足りないところを補うための日英同盟だったが、1930年代に入ると日竜がファシスト国家になり、暴走気味なのが頭痛の種だった。
特に日竜海軍の拡張は著しかった。
日竜海軍は第一次ロンドン海軍軍縮条約を政治問題化して昭和維新の引き金を引く役割を果たし、以後、国家社会主義政権の藩屏となった。
その褒賞として、日竜海軍は軍縮条約の部分参加を勝ち取った。
これにより1937年まで主力艦(戦艦、空母)の新規建造は禁止されたが、それ以外の艦艇については無制限となった。
日竜の脱法行為に同盟国は激怒したが、世界大恐慌下で合衆国は軍備拡張の意思を無くしており、ロンドン海軍軍縮条約が破綻することは回避された。
摂政の龍宮内親王は、大不況にあえぐ合衆国が軍縮条約を離脱することはないと判断していた。
さらに文句を言ってもイギリスが同盟破棄することはないと予想していた。
実際、英米は主力艦で倍の優越を抱えており、補助艦で多少、日竜が有利になったところで大勢に影響はないと考えていた。
また、同盟国にとって、極東の軍備を日竜に委託できる状況を捨ててまで、軍縮に拘るのは本末転倒だった。
それでは却って軍事費が増えてしまうからだ。
それに海軍休日下で日竜海軍が揃えようとしていた軍備は、基本的に防衛的なものだった。
日竜海軍の基本軍備構想となった八十八艦隊は、ワシントン海軍軍縮条約で認められた西太平洋島嶼領土の要塞化と潜水艦による接近拒否だった。
西太平洋で重要拠点に指定されたのは、サイパン島、トラック環礁、パラオそしてラバウルの4か所だった。
この四か所に軍縮条約で廃艦になったド級戦艦の30.5サンチ砲を陸揚げするなどして、要塞砲台を建設した。
要塞に守られた軍港に多数の潜水艦が配備された。
仮想敵国Aが侵攻してきたとしても、要塞砲があるので軍港には接近できない。
もちろん、全ての島嶼を要塞化できるわけではないので、占領される島嶼領土が出てくるかもしれない。
その場合は局地防衛用の潜水艦(ハ号潜水艦350t級)が迎撃戦闘を行う。
ハ号潜水艦よりもさらに小さい豆潜水艦(60t)も生産された。
さらに後方連絡線に対しては、ロ号潜水艦(1,000t級)が、さらに仮想敵国Aの沿岸付近にはイ号潜水艦(2,000t級)が進出して通商破壊を行う。
潜水艦攻撃で敵艦隊が十分に弱体化したあとで、日英同盟艦隊で艦隊決戦を挑み、これを撃退するというのが、日竜海軍の戦争シナリオだった。
日露戦争で辛酸を舐めた旅順要塞をあちこちに作り、第一次世界大戦で活躍したUボートのような戦いを太平洋で行うと考えれば分かりやすい。
日竜海軍の7割を占める竜宮人は潜水艦こそ、海軍の主力であると考えていた。
ただし、水上艦がどうでもよいというわけではなかった。
最後の逆襲は水上艦隊にしかできないことだからだ。
その水上艦隊の中核として、日竜海軍は条約型重巡洋艦を熱心に整備した。
青葉型から始まり、条約型重巡洋艦の完成形である妙高型、発展型の高雄型、高雄型を改良した六甲型重巡洋艦など、合計16隻が整備された。
日竜式巡洋艦の設計は、水雷兵装を重視していた。
主力艦の保有が対英米50%に制限されているため、巡洋艦で戦艦を打倒することが求められており、対戦艦戦闘を考慮して魚雷が装備されたのである。
10,000tしかない巡洋艦で、30,000t以上ある重装甲の戦艦と戦わなければならないため、差し違える覚悟で突貫して魚雷を撃ち込むというのが基本戦術だった。
これは駆逐艦でも同様であり、高速・重雷装の大型駆逐艦が整備された。
特型駆逐艦(1,880t)は軽巡洋艦並みの航洋性能を持った水雷艇と呼べる駆逐艦であり、それまで駆逐艦や水雷艇が進出できなかった外洋で水雷襲撃を行う特殊兵器だった。
まさに特型という他ない船である。
ただし、上述の重巡洋艦や特型駆逐艦は、あまりにも革新的だったため、補助艦を対象したロンドン海軍軍縮会議を呼び込んでしまったという点では失敗だった。
最終的に日竜は部分参加に留まったものの、特型駆逐艦は同盟国から苦情が入ったため、24隻で建造が打ち切られた。
ただし、日竜海軍も特型駆逐艦は特殊兵器と考えており、大型駆逐艦の建艦競争を回避するために、24隻以上建造する計画はなかった。
また、戦略思想の変化もあった。
昭和維新後の日竜は、政治目標として共産主義撲滅を掲げることとなった。
海軍においても対ソ戦が重視され、沿海州への強襲作戦が議論された。
つまり防衛艦隊から、攻勢艦隊への転換である。
沿海州強襲において重要なのは、対空・対潜能力だった。
何しろ、ソ連海軍は全く弱体だったから、水上戦闘はあったとしても限定的と考えられた。それよりも沿海州からの空襲や潜水艦の待ち伏せに対応しなければならなかった。
海軍が空母整備の優先度をあげたのも昭和維新後の話だった。
1920年代の海軍は、実験艦の竜飛や龍驤を弄り回して、それで良しとしていた。
要塞島には併せて航空基地も整備されており、基地航空隊の支援が受けられるなら空母は必ずしも必須ではなかった。
空母が必須となるのは、基地航空隊のエアカバーが届かない敵地へ侵攻するときであり、沿海州強襲がなければ、1931年から4年度連続建造となった蒼龍型空母もなかった。
沿海州強襲のような戦いに必要なものは魚雷ではなく対潜爆雷であり、平射砲よりも高角砲だった。水雷襲撃用の高速発揮も不要で、ほどほどに速度が出れば十分だった。
つまり、松型駆逐艦(1,250t)となる。
控えめな大きさの松型を見て、同盟国海軍は、
「豚鬼?サキュバスの間違いだろう」
と揶揄した。
これは余談だが、日竜海軍や海援隊の船が港に入ると、夜の町から娼婦や男娼が売り切れになるのが常だった。
海軍の人員は7割は竜宮人で、艦隊勤務者になると9割が竜宮人だった。
竜宮人にとって、閉鎖的な環境に同族だけが押し込められているのは、極めてストレスフルな環境である。
そのため、艦隊勤務者の1割は必ず日本人であるように配慮された。
艦隊勤務の日本人は自分たちのことを
「精神安定剤か、清涼剤」
などと呼んで自嘲していたが、逆ハーレムで羨ましいという意見もある。
問題は、大規模な演習がある場合だった。
民間業者が運営する夜の町のキャパシティが飽和するほど水兵が集中するからだ。
海軍鎮守府周辺自治体では、どこからともなく海軍の演習日程表を入手し、上陸日には小中学校の生徒を速やかに帰宅させるように手配するのが嗜みとされた。
もちろん、憲兵隊を配置することも忘れてはならない。
陸軍と日程があう場合は、どのような名目でも良いので可能なかぎり合同で演習を行って、歩兵1個大隊を借りることも考慮すべきことだった。
大抵の場合は、それで解決するのだが、大量の艦船が集中する特別大演習観艦式などでは通常の対応では間に合わなかった。
非常対応として、近くの漁村から若い男女が招集されたり、師範学校の体力に優れた生徒などが御国のためにかき集められた。
上陸した水兵で特に危険なのは、潜水艦勤務者だった。
潜水艦は日本人1割の法則の例外だったからである。
狭い空間で、長期間にわたって竜宮人のみの生活が続く潜水艦勤務は、一周回って哲学者を生み出すほど過酷な生活だった。
血走った目の潜水艦勤務者が突撃一番を握りしめて夜の町へ消えていくのを妨害するのは禁忌事項だった。
別にどうなってもいい、或いはどうにかされたい願望があるのなら、その限りではないが。
それはさておき、攻勢艦隊へ転身した日竜海軍が第二次ロンドン海軍軍縮条約を呑んだのは対ソ戦用なら既に艦隊整備が十分だったことが大きい。
また、急速に反日排竜政策を強める合衆国の軍拡を阻止するという意味もあった。
フランクリン・ルーズベルト大統領が1933年に大統領職に就くと景気対策予算を建艦に充当し、合衆国海軍は1936年までにワシントン・ロンドン条約の上限一杯まで艦隊戦力を拡張した。
1937年以降は、軍縮条約の失効を待ってさらなる海軍拡張の計画があった。
所謂、両洋艦隊構想である。
単純にいえば合衆国海軍をもう1セット作る構想だった。
ファシズム国家の脅威とそれに加担する大英帝国に対してモンロー宣言の精神を守るには、圧倒的な艦隊戦力の整備が不可欠というのが合衆国の言い分だった。
計画完成の暁には、日竜海軍は対米3割以下となり、国防が不可能になる大計画だった。
両洋艦隊構想を知らされたイギリス政府は軍縮条約絶対不可避として、日英の政治力を結集して交渉に臨むことになった。
なお、対米交渉はイギリスが担当し、軍縮条約参加を渋るイタリアを説得するのが日竜の担当になった。
ムッソリーニの盟友関係にあった龍宮内親王は、トップ交渉でイタリアの軍縮条約参加を引き出した。
代わりにエチオピアと海援隊の傭兵契約を破棄するという重い代償を払うことになった。
ムッソリーニはエチオピア征服の野心を秘めており、エチオピアに展開する海援隊は目の上のたん瘤だった。
エチオピアは、坂本竜馬がソマリア沖で海援隊の傭兵業を始めたころからの顧客である。
エチオピアの独立は海援隊と共にあったというほど深い関係であり、ムッソリーニのエチオピア侵攻を前にして、彼らを見捨てることは非情の決断だった。
しかし、背に腹は代えられない。
イタリアの軍縮条約参加は、イタリア海軍拡張に神経を尖らせていたフランスから前向きな反応を引き出すこととなり、日英伊仏は条約参加でまとまった。
ただし、対米交渉は難航した。
合衆国は、戦艦や空母全廃といった攻撃的軍備の全廃という非現実な提案をしていたからである。
世界平和のために攻撃的な軍備を捨てようという合衆国の提案は、一見するともっともらしいが実現不可能であり、露骨な軍縮会議潰しと責任回避が見え透いていた。
合衆国には他にも外交上の火種を抱えており、ソ連戦艦建造疑惑が持ち上がっていた。
合衆国企業が、ソ連の戦艦建造に協力しているという疑いである。
ソ連は1935年以降、海軍拡張に転じ、戦艦15隻建造という大計画を推し進めていた。
計画には紆余曲折があり、まもなく戦艦の建造は8隻に減じたが、その戦艦は基準排水量が60,000tを超える超巨大戦艦という情報があった。
陸軍国のソ連にそのような戦艦を建造する能力があるとは誰も考えていなかったので外部の協力者が疑われた。
巨大であると同時に精密機器の塊である戦艦を建造するノウハウを持つ国は限られており、まもなく、合衆国企業のギブス&コックス社にソ連の海軍将校が多数出入りしていることがマスコミに暴露された。
ギブス&コックス社は関与を否定したが、記者会見後に代表取締役が不審な自殺を遂げるなどキナ臭い香りが漂っていた。
龍宮内親王は、ギブス&コックス社は氷山の一角にすぎず、合衆国の中枢に共産主義勢力が浸透しているとみなしていた。
確かに、ルーズベルト政権が進めるニューディール政策は、多分にソ連の計画経済的な雰囲気があった。
政策立案に関わったニューディーラー達がコミュニストと共和党から口撃されていたのは事実である。
しかし、当時としても合衆国中枢にソ連のスパイが浸透しているというのは、あまりにも陰謀論が過ぎると言わざるを得ない。
一部の陰謀論者は、FDRが1932年の大統領選挙中に遭遇したロズウェル事件で替え玉に摺り替わっており、合衆国大統領そのものがソ連のスパイだったと主張した。
ロズウェル事件とは、ニューメキシコ州のロズウェルで選挙演説中だったルーズベルト大統領が遭遇した謎の発光現象である。
深夜、FDRが宿泊していたホテルが突如として白い光に包まれた。
おそらくは空中放電が原因と思われるが、陰謀論者はソ連から飛来した宇宙船の光だと主張した。
宇宙共産主義者によって誘拐されたFDRはミュータントに改造され、モスクワからのスカラー波通信によって操られているとされた。
あまりにも馬鹿馬鹿しいのでこれ以上の言及は避けるが、陰謀論者はFDRがポリオに罹病し、下半身麻痺だったことをすり替えの証拠とした。
当時は紳士協定などで殆ど知られていなかったが、FDRは下半身麻痺があり、車椅子生活者だった。
しかし、大統領当選後のルーズベルトは多くの記録映像で健常者然としており、歩行にも全く問題があるようには見えない。
ポリオによる麻痺が自然治癒することはなく、対処法は基本的には残った機能を生かすリハビリテーションが基本である。
もちろん、奇跡的に回復することがないわけではないし、ルーズベルトの麻痺がリハビリテーションで補える程度に軽度だった可能性もある。
筆者としては、ルーズベルト氏の麻痺は軽度なものであり、念のため車いすを使用していたが、大統領としての体面を保つために使うのを止めたのではないかと考えている。
話が逸れたが、対米交渉は最終的に艦艇の質的制限に限定することが妥結した。
即ち、主力戦艦は35,000tを上限とし、主砲口径も14インチまでとなった。
航空母艦は23,000tを上限とし、それ以外の巡洋艦・駆逐艦などは軽艦艇としてひとまとめにして8,000tまでに制限されることになった。
潜水艦も2,000tが上限となった。これは日竜海軍にとっては不満だったが、耐え忍ぶものとされた。
量的制限は設けられなかったが、合衆国が超巨大戦艦や超大型空母を量産化するような悪夢はひとまず回避された。
また、巡洋艦も8,000tまでに制限されたので、10,000t級の条約型巡洋艦を多数抱える日英海軍の質的な優越は当面、維持される見込みだった。
第二次ロンドン条約の成立を受け、各国は一斉に新条約型戦艦の建造に走った。
合衆国海軍のノースカロライナ級戦艦(6隻)、イギリス海軍のKGV級戦艦(5隻)や、イタリアのヴィットリオ・ヴェネト級戦艦(4隻)、フランスのリシュリュー級戦艦(4隻)である。
これらの新戦艦はいずれも14インチ(35.6サンチ)砲を搭載していた。
日竜海軍において新条約型戦艦として建造されたのが、高千穂型戦艦(1隻)となる。
新条約型戦艦は2種類に大別され、4連装砲を採用して手数を重視するか、後日に16インチ(41サンチ)砲への換装に含みを残したグループと換装を考慮せず14インチ砲のままで威力を追及するグループに分かれる。
前者は米英仏(10門以上)で、後者が日伊(9門)となる。
特に高千穂型戦艦は、35.6サンチ口径漸減砲という非常に特殊な砲を搭載した。
口径漸減砲とは、砲身の内径が(410mmから356mmへと)先細りになっている構造を持つ砲のことである。砲弾は軟鉄製の輪縁が削り絞られた状態で砲口から射出される。
この時、砲弾は非常に高圧状態になるため、砲口初速は秒速1,200mに達し、最大仰角で発射した場合は、47km先まで到達した。
海軍内部の大艦巨砲主義者は、軍縮条約を回避しながら、16インチ(41サンチ)砲を搭載できる画期的なシステムと喧伝した。
しかし、構造上、砲身命数は400発と極めて低く、砲弾も大量のタングステンを使用するため、極めて高価だった。
どれぐらい高価だったかといえば、予算上は2隻が建造できるはずなのに、実際に完成したのは1隻(高千穂)だけだったほどである。
建造予算の見積が不当に低く、実際の建造段階になって予算不足が露呈し、2番艦用の予算が流用された結果だった。
実際には、虚偽予算要求という他なかった。
最終的にこの事件は艦政本部長の自決(切腹)にまで発展した。
この事件解決に活躍した数学の天才を龍宮内親王は海軍主計少佐に抜擢して重用することになるのだが、それはまた別の話である。
戦艦1隻分の予算で、2隻分の火力を求めて始まったド級戦艦の歴史が、戦艦2隻分の予算で1隻しか建造できない船で終わるというのは極めて示唆的というほかない。
事件を招いた原因は、誘導兵器の実用化が背景にあった。
上海事変に投入された滑空型のイ号一型甲無線誘導弾やロケット推進のイ号一型乙無線誘導弾の前には、戦艦は過去の遺物だった。
誘導兵器に対して優位性を示すことができないことに焦った大艦巨砲主義者達が、戦艦を作るために不当に低く建造予算を見積もったことが事件の真相になる。
実際、誘導兵器の前には重巡洋艦さえ無意味になっていた。
特型駆逐艦も同様である。
37kt(時速68km)で敵戦艦に肉薄して魚雷を撃ち込むような戦術はもう要らなかった。
ロケットで時速1000kmまで加速し、20km先の標的を魚雷とは比較にならないほど正確に打撃する対艦誘導弾の前には、駆逐艦の速力が40ktだろうと、30ktだろうと関係ないからである。
海軍が1937年以降に建造した駆逐艦は、松型駆逐艦を改良した1,500t級の白露型(18隻)、初春型(18隻)といった誘導弾搭載駆逐艦ばかりで、速力も30ノット以上であれば可という最低限のものになっていた。
2,000t級の朝潮型(24隻)などは、特型駆逐艦の後継艦でありながらディーゼル機関を採用し、速力を29ktまで落としてでも、航続距離を稼ぐ方向にシフトした。
一応、海軍は誘導兵器万能論というわけではなく、既存戦艦や条約型重巡洋艦の大改装、8,000t級大型軽巡洋艦(最上型6隻)や6,000t級防空巡洋艦(阿賀野型6隻)の建造は行っていたが、どちらかといえばそれは保険だった。
海軍の主力は、防御を担う潜水艦と攻撃を担う空母であり、それぞれ水中高速型潜水艦(伊201型:1,980t)と翔鶴型装甲空母(23,000t)として結実した。
さらに海軍は、1937年以降に択捉島の単冠湾を軍港に指定し、艦隊泊地としての整備を開始した。
表向きは対ソ戦備の一環となっていたが、ベーリング海のみならず北太平洋全域の水路調査などにも予算がついていた。
同盟国への配慮として、表向きは伏せられていたが、日竜海軍が合衆国海軍との対決を意識していたのは、明らかだった。
陸軍
共産主義撲滅を掲げる龍宮内親王は、政権掌握以後、急速に陸軍拡張を行った。
これは対ソ戦という目標もあったが、失業対策や陸軍掌握という目的があった。
兵員の7割が竜宮人だった海軍に比べて、日本人が7割を占める陸軍は、昭和維新に対して微妙な距離感があった。
陸軍皇道派は、昭和維新にもろ手を挙げて賛同したが、統制派は慎重姿勢だった。
統制派の懸念は、摂政の龍宮内親王によって権威を回復した政府によって、陸軍の独立性が侵害されることだった。
また、親衛隊の武装化には絶対反対の立場だった。
実際のところ、龍宮内親王は政治的な行動が目立つ陸軍を警戒していた。
敵視していたと言っても良いほどだった。
自身の近衛兵と言っても差支えない海軍に比べて、陸軍はクーデタで政権を転覆させかねない恐怖があった。
そこで、大規模軍拡という飴を並べて懐柔を図った。
昭和維新前、陸軍は大正軍縮を経て20個師団体制となっていた。
第一次世界大戦時には総兵力200万人を動員したことを考えれば、10分の1まで軍縮が行われていた計算となる。
これを10年計画、平時50個師団・戦時100個師団体制へと拡張することになった。
計画完成年度の1942年に有事が発生した場合は、総動員を行えば、総兵力が450万人に達する計算だった。
陸軍は、空前絶後と言ってもいい規模の大軍拡に狂喜乱舞した。
軍拡にともなって増える予算やポストは、本質的に官僚組織である陸軍にとって、自身や同僚やこれから入庁する後輩の繁栄を約束するものだった。
ただし、龍宮内親王は飴の中には毒を差し込むことも忘れていなかった。
兵員の確保という名目で、徴兵検査項目を修正させて、竜宮人の兵員を増やすと共に徴兵対象を女性にも拡大した。
女性徴兵は、陸軍の反発も大きかった。
しかし、摂政から
「体格、膂力において竜宮人と同等ならば、何の支障があろうか?」
と言われては、反対することは難しかった。
実際のところ、大軍拡で健康な成年男子を確保することが難しくなっていたのは事実で、徴兵検査で跳ねていた乙種・丙種(竜宮人)も止む無しという情勢だった。
筋力などで、女性は竜宮人と同等だったので、女性徴兵を解禁すれば、兵役人口問題は大幅に改善することになる。
だからと言って女まで徴兵するのはどうかという意見もあったが、女性差別撤廃の声に押し切られた。
竜宮人世論は、第一次世界大戦以後、竜宮人差別に対抗するためにあらゆる差別反対運動と連携する向きが強くなっていた。
その中には、女性差別反対運動も含まれており、1933年には婦人参政権が認められた。
同じ文脈で台湾や朝鮮半島でも徴兵制施行と参政権付与が実施され、台湾・朝鮮出身者の国政議員が大量に現れることになる。
女性徴兵によって陸軍の空気は大きく変わった。
徴兵のみならず、将校教育制度も修正され、将校確保のために一般大学卒業者でも兵科現役将校となれる男女共学の予備士官学校が大拡充され、全国5校開設された。
予備士官学校の拡充は、軍拡で大量に必要となる下級将校の確保が名目とされた。
予備士官の最高階級は大尉までとされたが、実際には補講を受けることで大尉以上の高級将校になることも可能だった。
龍宮内親王が予備士官制度拡充に推進したのは、陸軍士官学校卒業生以外の高級軍人を大量に作ることで、軍閥の力を弱めるためだった。
少数のインナーサークルをぶち壊しにするため、大量の新規加入者を送り込んだといえば分かりやすいだろうか。
女性徴兵も同じ文脈だった。
さらに賞与制度が勅令で開設(1934年)された。
軍の給与には手当などはあっても、民間の賞与に該当するものはなく、将校に夏冬ボーナスが支給されるようになったのは、国家社会主義時代以後のことである。
賞与は皇室費から出るものとされ、その査定は事実上、龍宮内親王の匙加減一つだった。
さすがに佐官以下の将校まで目配りすることはできなかったが、少将以上は龍宮内親王が直接、査定を行った。
なお、龍宮内親王は、この賞与査定を無上の楽しみにしていた。
お気に入りの将軍には手厚く、失態を重ねた者や戦意が不足しているもの、皇室への忠誠心が疑われたものは0査定だった。
そのため、ボーナスの支給額を調べると龍宮内親王に重用されていた人物が誰だったのかすぐに分かるため、査定表は貴重な歴史資料になっている。
ボーナスの高額受給者は時期によって変わるが、東条英機や山下奉文などは上位10名から外れたことがなく、逆に山本五十六などは知名度の割には低い。
アクが強い性格の山本五十六は龍宮内親王と不仲だったことは有名だが、賞与査定はそれを裏付ける証拠と言える。
子沢山の家庭や家を新築してローンを組んだ将校にとって、賞与査定ほど恐ろしいものはなかった。
国家社会主義時代に陸軍の政治的な活動が抑制され、政府の統制に組み込まれることになったのは、賞与査定のためという説さえあるほどである。
陸軍統制派の中心人物だった永田鉄山は、内親王による陸軍掌握に抵抗を試みたが、1935年に陸軍省内部で白昼刺殺(相沢事件)され、統制派は崩壊に至る。
相沢事件の影には、内親王の意があったとされている。
軍務局長暗殺という大事件にも関わらず、実行犯の相沢中佐は予備役編入の上で、5年間の実刑判決を受けただけで放免となった。
相沢事件以後、親衛隊の武装化が許可され、1937年に第1親衛戦車師団が編制されることになる。
内親王が陸軍に求めたのは、シベリアを横断してモスクワを占領することだった。
冗談のように思えるが、内親王は本気だった。
「共産主義が滅びるか、我々が滅びるか」
一度戦いが始まれば、対ソ戦は絶滅戦争しかないと内親王は断言していた。
陸軍内部では、バトゥのルーシ征服について真剣な歴史資料調査を行うなど、シベリアからモスクワに至る戦争計画が立案された。
内親王は対ソ戦争計画についてモンゴル計画の名を与え、陸海空軍の戦争計画において最上位計画に位置づけた。
計画立案を指揮したのは、作戦の鬼と称された陸軍皇道派の中心人物、小畑敏四郎だった。
その鬼の小畑でさえ、最長5年間の国家総力戦と積みあがっていく膨大な犠牲に恐怖し、精神衰弱に陥ったほどだった。
何しろ、モンゴル計画の最終段階では、日竜の人的損失は最大で1,000万人にまで拡大したからだ。
1930年代末の日竜の総人口が漸く1億人に届くか、届かないかという時代に1,000万人の死は、国家崩壊の同義語だった。
それで勝利したとしても、半世紀は立ち直れないほどの打撃を被る計算だった。
小畑は戦略家として、一周回って戦争の無益さを説くヒューマニストになったが、龍宮内親王はモンゴル計画に裁可を与えた。
犠牲が多すぎると訴える小畑に対して、
「1,000万の死があるのなら、2,000万を産めばいい」
と膨らんだ自分の腹を撫でさすりながら答えたという。
日本神話の時代から続く模範解答と言えなくもない。
ちなみに龍宮内親王は、
「国家と結婚した」
と称して、正式な結婚することはなかったが、女官(愛人)は大量に囲っていて、たまに自分で産むこともあった。
国家社会主義時代の多産政策や、充実した保育・児童医療体制は迫る大量絶滅戦争に備えたものだったが、国家のトップがしょっちゅう妊娠するという事情もあった。
ただし、表向きは職務に専念しているということで、妊娠・育児をしながら国家運営をしていたことは情報統制で伏せられた。
第二次世界大戦に臨んだ国家指導者のうち、唯一の経産婦という言い方もできる。
それはさておき、モンゴル計画の困難さは、長大な補給線を維持することの困難さだった。
シベリア鉄道の占領・修復速度が前進・補給を決定するため、日竜陸軍は膨大な鉄道工兵を育成することとなり、最終的には鉄道軍団を編制することになった。
列強各国も鉄道運行を専門とする部門はあったものの軍団規模の鉄道工兵をもつことはなかった。
もちろん、膨大な鉄道工兵は平時においては職がないため、人員は国鉄に貸し出された。
1939年に開通した東海道弾丸鉄道は、もっぱら鉄道軍団の大演習目的で建設されたとさえ言える。
東海道弾丸鉄道は、日竜の二大都市(東京・大阪)を結ぶ大動脈である。
弾丸鉄道は輸送力強化のため日竜標準の狭軌ではなく、ロシア広軌で建設された。
現在でこそ東海道弾丸鉄道は時速370kmで走る高速旅客専用鉄道だが、完成当初は貨物列車も運行していた。
東海道弾丸鉄道は、来るべき大戦争に備えてロシア広軌用の機関車・貨車を大量に抱えておくという裏の目的があった。
前線での戦いでは、機動戦が重視された。
第一次世界大戦のような戦線の膠着と消耗戦を回避するためである。
そのため、部隊の機械化が非常に重視された。
日露戦争時代から装甲戦闘車両を投入するなど、日竜陸軍は機械化部隊のパイオニアだったが、第一次世界大戦を経てそれはさらに洗練されたものとなった。
1937年の上海事変で威力を発揮した九七式中戦車などは、陸軍機械化の精華だった。
さらに戦車と共同で前進できる全装軌式歩兵輸送車や自走榴弾砲も続々と完成して、戦車師団に配備された。
モンゴル計画においては、常備兵力の50個師団のうち親衛隊を含めて10個戦車師団、残りの40個師団は機動歩兵師団とする予定だった。
実際には生産力の限界から、1930年代末までの機械化率は半数程度だった。
ちなみに機動歩兵とは、人型ロボットに搭乗して戦う歩兵師団ではなく、装甲車やトラックに乗って機動することができる歩兵という意味である。
竜宮人なら人型ロボット兵器も作りかねないという懸念があるかもしれないが、それは杞憂である。
「宇宙艦隊戦において、人型機動兵器は小さすぎて無意味」
「恒星間航行できない局地戦兵器なら軌道要塞の方がコストパフォーマンスがいい」
というのが竜宮人の一般認識だからである。
それはさておき、機動戦で前進する陸軍は、自走化した砲兵の支援を受けることになっていたが、全ての支援を砲兵で賄うのは現実的ではないとされた。
機械化部隊の前進速度は、しばしば砲兵の展開速度を遥かに超えてしまうからだ。
第一次世界大戦においても、前進する英仏軍は常に航空戦力の援護を受けており、航空支援は現代戦において必須要素だった。
航空支援を担うのは1933年に建軍されたばかりの空軍だった。
空軍
日竜空軍は、主に陸軍航空隊を拡大発展する形で発足し、陸軍の支援を目的に発展した。
しかし、最終的には独自戦略を採用した。
即ち、戦略爆撃である。
日竜空軍は、イタリア空軍の影響を多分に受けており、早期からジュリオ・ドゥーエの主張した”戦略爆撃”を意識していた。
しかし、ドゥーエが無差別爆撃による敵国民間人の戦意喪失を狙ったことに対して、日竜空軍を作った東条英機はその種のテロ爆撃には否定的だった。
東条は無差別攻撃や毒ガスなどの大量破壊兵器の使用は、却って敵愾心を煽る結果に終わる可能性が高いと考えていた。
龍宮内親王も無差別攻撃で民間人を殺傷することには否定的だった。
何しろ竜宮人の戦争目的は、理想の美少女を紳士にお届けすることであって、紳士を皆殺しにしてしまっては意味がないからだ。
紳士を淑女に言い換えてもかまわないが、無差別の民間人殺戮は全く考慮の埒外だった。
「一人では性交はなりたたないのである。一人で出来るのは自慰だけだ」
という人命尊重方針を謳った龍宮内親王の演説は有名である。
上海事変で投入されたイ号一型甲無線誘導弾などは、精密爆撃による付帯被害軽減を掲げる東条や龍宮内親王の意向が強く反映された兵器と言える。
また、最小の爆弾で最大の戦果を出すことが、生産力に限界がある日竜空軍には必要だった。
誘導爆弾を使えば、大量の爆弾の代わりに、大量の燃料を積んで長距離飛行が可能となる。
それは戦略爆撃機の設計において極めて有用だった。
対ソ戦にあたっては、戦線後方にある生産設備を破壊しなければ、無限に戦争が続くことになりかねなかった。
前線で兵器を破壊するのではなく、前線に届く前に叩くという点では、日竜空軍の目指した戦略爆撃は近接航空支援の延長線上にあるとも言える。
ソ連の工業地帯は、ウラル山脈の向こう側、欧州側に広がっていた。
造船や機械工業の集まったレーニングラード、南部の工業地帯の中心都市であるスターリングラード、ウクライナにあるハリコフ、キエフなどがソ連の工業都市となる。
また、燃料を供給するバクー油田も重要だった。
そして、これらを集めて、再び地方に送り出すという交通ハブの役割を果たすのがモスクワとなる。
空軍は、これらの目標を破壊するための超重爆撃機を求めた。
所謂、ウラル爆撃機計画である。
計画では、満州から離陸してモスクワを爆撃するため最低1tの爆弾を搭載して、12,000km飛行することが求められた。
最低1tという数字は前述のとおり、誘導兵器を用いる前提である。
ウラル重爆は、1935年から試作が繰り返された。
計画における最大の難関は、全ての航空機を円盤型にしたり、大気圏離脱能力を与えたがる竜宮人の横やりをかわすことだった。
龍宮内親王は、ウラル重爆を決戦兵器と捉えて、度々進捗状況を確認した。
そのたびに東条は、現場に赴いて円盤型ではないことや、大気圏離脱能力が不要であることを説明しなければならなかった。
龍宮内親王は、経験から竜宮人全般は航空機全般に誤った認識をしているらしいことに気づいていたので、その説明を受け入れた。
ただし、円盤型に近い全翼機型にはかなり拘りがあり、ノースロップ社案を最後まで支持していた。
最終的にウラル重爆は、通常形式のハインケル社案が採用された。
制式化された九七式重爆は、残念ながら航続距離の要求が未達成だった。
しかし、部隊運用の訓練や海軍向けの陸上攻撃機としては十分だったことから採用された。
要求未達での採用にジャック・ノースロップは激怒したが、ノースロップ案は墜落事故を起こして失敗作であることが明らかになっていた。
巻き返しを図って、ノースロップが開発したのが真のウラル重爆撃機にして、世界初の実用全翼式航空機の百式重爆撃機となる。
空軍は陸軍を航空支援で支え、戦略爆撃でモスクワを叩くという目標を掲げて、1940年までに空軍1万機体制を目指していた。
計画完成の暁には、日竜空軍は世界最大最強の空軍となるはずだった。
実際には生産力の限界から、1939年次点で5,000機体制が限界だった。
その状態で、日竜はノモンハンの夏を迎えることになった。




