上海事変
上海事変
西安事件とは、1936年12月12日に中華民国西安で起きた張学良らによる蔣介石軍事委員長拉致監禁事件である。
事件が起きるまで、張学良はそれほど目立つ活躍がある人物ではなかった。
ちなみにその後も殆ど目立たなかったので、西安事件だけが彼の人生のハイライトのように取り上げられることが多い。
張学良の父は、張作霖である。
張作霖といえば、満州王国の首相を務めた大政治家だった。
当時の言葉を使えば、北洋軍閥のボスだった。
満州王国が、日英米共同経営の満鉄利権を守るための傀儡国家であることは周知の事実であり、張作霖は植民地支配に加担する現地協力者という言い方もできる。
張学良は、そんな父に対する反発から中国の独立・統一を志した。
それだけなら、親子の相克といったよくある話なのだが、問題は彼が軍閥という物騒な集団のボスのドラ息子だったことだろう。
しかも、そのドラ息子はソ連に助力を求めたのである。
ソ連から帰国した張学良はまるで人が変わってしまった。
部下からは、
「モスクワで何かされたようだ」
と噂されたが、張学良はソ連と太いパイプを築いていた。
ソ連から自由に資金と武器を調達できることが、張学良の政治力の全てだった。
西安事件が起きる前の中華情勢は、孫文の後継者を自認する蒋介石が中華民国内の左派・共産主義勢力を一掃し、中華統一に王手をかけていた。
蔣介石が勢力を拡大したのは、彼自身のカリスマ性や政治手腕もさることながら、反共のストロングマンという外部評価が大きかった。
中国に様々な経済利権をもつ列強各国は、繰り返される共産主義勢力の爆弾テロにうんざりしていた。
蔣介石が支持されたのは、彼が強権的手法で治安回復に努めたことが評価されたことが大きい。
特に合衆国は蒋介石に深く入れ込んだ。
蒋介石の妻が合衆国に留学経験があるクリスチャンということが、東部のエスタブリッシュメントにとっては重要だったようである。
イギリスは冷ややかだったが、他に適当な人物がいないという理由で蔣介石を支持した。
昭和維新でファシズム政権が確立した日竜は、反共同盟が組めれば誰でも良かった。
東アジアの列強三大勢力から支持された蔣介石は、合衆国由来の豊富な資金力で海援隊と傭兵契約を結び、軍閥掃討と共産党殲滅に乗り出した。
結果、1936年初頭までに瑞金の中国共産党本部は壊滅状態に追い込まれた。
第6次瑞金包囲戦では毛沢東など主だった幹部が死亡し、国共内戦は蒋介石の勝利によって終わったと言える。
だが、西安事件で張学良の説得を受けた蒋介石は、突如として反共戦を放棄してしまう。
それどころか電撃的に国共合作を宣言して、自分が壊滅させた中国共産党と手を組んだ。
さらに軍閥掃討戦を担った海援隊との傭兵契約を放棄し、日竜陸軍の軍事顧問を追放するなど、急速に反日排竜政策を進めた。
上海にある各国の租界では、共産主義者による爆弾テロが続発し、治安は急速に悪化した。
各国は蒋介石の左急旋回にパニック状態となった。
1937年7月7日には、北京に駐留する日竜陸軍部隊を標的とした銃撃事件が発生した。
所謂、盧溝橋事件である。
事件そのものは、すぐに沈静化した。
事件の被害者と見られていた行方不明の竜宮兵が、勤務時間中に兵舎を抜け出して現地妻と不倫性交をしていたことが判明したためである。
醜聞になることを嫌った陸軍中央は銃撃事件を有耶無耶にした。
しかし、その後も中国各地で竜宮人をターゲットにしたテロ事件が続いた。
通州事件はその最たるもので、多数の竜宮人と日本人が中華民国の治安部隊によって暴行、凌辱、虐殺された猟奇的事件である。
通州事件は、日竜世論を激高させた。
そういうプレイは紙の上や映像作品ならともかく、リアルでやってよいことではないからだ。
そうした趣向が行き過ぎてしまい本当に死んでしまうことがしばしばあるが、過失と故意の強姦殺人は全く異なるものである。
戦争前夜の状況で、中華民国軍は抗日排竜を標ぼうして、上海の日本租界に対して恐怖爆撃を開始した。
恐怖爆撃とは、政治的な示威を目的に民間人を殺傷する無差別攻撃である。
さらに中国民国軍が、日本租界を包囲した。
現地では海援隊がバリケードを築いて防戦にあたり、海軍の空母部隊が緊急出動して防空戦闘を行うことになった。
中華民国軍は、400機近い作戦機を投入しながらも、シナ海を遊弋する空母蒼龍、飛龍に対してまるで歯が立たなかった。
日竜海運が満を持て投入した九六式艦上戦闘機は、中華民国空軍の戦闘機を一蹴した。
九六式艦上戦闘機の外見は、素人目にはそれが空を飛ぶのが信じられない有様である。
対戦することになった中国のパイロットは、
「アイヤー!」
と叫んで吃驚したが、まもなくその叫びは絶命の叫びに変わった。
飛翔大皿と呼ばれ、中国の空を支配することになった異形の戦闘機は、竜宮人が長年に渡って積み上げてきた円盤翼研究の結晶だった。
どういうわけか、空を飛ぶものを悉く円盤型にしたがる奇癖を持つ竜宮人は、飛行機のパイオニアであるにも関わらず、黎明期から不遇だった。
ある程度は理性で抑えつけることで、葉巻型や紡錘体型といった比較的常識な胴体形状で自分をごまかすことも可能だったが、主翼や尾翼をつけると首を傾げるものが多かった。
「生来的に竜宮人は、飛行機の設計に向いていない」
という烙印を押され、航空機設計者の道を諦めた竜宮人は多かった。
そうした常識を打ち破ったのが、米国系竜宮人のジロー・堀越・アダムスキーだった。
彼はノースロップ社に入社すると独自の円盤翼理論を突き詰め、アダムスキー翼に昇華させて、九六式艦上戦闘機として完成させた。
アダムスキー翼は海軍から絶賛された。
何しろ円盤型なのである。
さらに画期的な短距離離着陸が可能であり、これは艦上機にぴったりの特性だった。
あまりにもSTOL性が高いため、巡洋艦の空いたスペースでさえ離着艦できるほどだった。
もちろん、陸上機としても滑走距離が短い方がよいことは多く、空軍では九七式戦闘機として採用されることになった。
さらに機体に使用されたメタライトは、アルミと合板を組み合わせた生産性に優れた堅牢な素材であり、九六式艦上戦闘機/九七式戦闘機はしばしば大口径機関砲の直撃に耐えて帰還し、パイロットからの絶対的な信頼を集めた。
惜しむらくは既にレシプロエンジン機の時代は日竜では終わろうとしており、ジェット化の流れにアダムスキー翼は乗ることができなかった。
それでも、複葉機主体の中国空軍を蹴散らすには十分だった。
航空支援を受けて海援隊は、10倍以上の中華民国軍を跳ね返し、日本租界を守り抜いた。
交戦距離が短い市街戦においては、海援隊が持ち込んだ新式銃が極めて高い適性を示したことも大きかった。
新式銃は第一次大戦の塹壕戦において威力を発揮した短機関銃と従来型のボルトアクション式ライフルの中間の威力をもつ新式弾薬(5.45mm✕39)を用いて、高精度の単射と機関銃のような連射を両立した革新的な新兵器だった。
開発元のダゴン・ファイア・アームズ社は、従来のあらゆる小火器と異なることを強調するために突撃銃という分かったような分からない呼称を編み出した。
外観もアルミ合金やベークライトといった新素材を多用した未来的なものだったが、その目的は少しでも銃を軽くすることにあった。
何しろ、軟体構造の竜宮人は一般的に非力だからである。
銃の反動制御も日本人に比べると困難なことが多く、少しでも軽く、反動が少ない銃火器が求められていた。
小口径高速弾の採用や作動機構にガス直噴式を採用したのも、できるだけ反動を減らす工夫だった。
光線銃にすれば全ての問題が解決するのだが、ないものはないのだった。
これは余談だが、上述の理由によって竜宮人は一般的に反動を次弾装填に使うブローバック式のピストルを使用することが苦手である。
体の構造が柔軟であるため、反動が逃げてしまい装弾不良の原因となるためである。
そのため、各国陸軍がオートマチックピストルを採用した21世紀現在でもリボルバーピストルを採用し続けている。
世論の沸騰に対して、龍宮内親王は同盟国と協議の上で、反撃のため大規模な上陸作戦を展開した。
日竜軍は、7個師団と連合艦隊の半数を動員して、2個師団を租界防衛に差し向けると共に中華民国軍の裏をかいて上海南60kmにある杭州湾に3個師団を一挙に上陸させた。
杭州湾上陸作戦は、危険な敵前上陸となった。
しかし、日竜軍にとって上陸作戦とはお家芸のようなものである。
上陸作戦の先鋒を務めた第6師団は、兵員の9割を竜宮人で固めた上陸作戦特化師団で、竜宮兵は武器弾薬が入った水密コンテナを引いて、海底を歩いて侵攻した。
さらに海軍の巡洋艦・戦艦による艦砲支援の元、3個師団は僅か1日に橋頭堡を確保した。
この艦砲射撃には、イギリス海軍の巡洋艦も参加した。
上陸作戦の趨勢には殆ど関係ない話だが、政治的には極めて重要だった。
ロイヤル・ネイヴィーは、インペリアル・ネイヴィーと共にあり、ユニオンジャックと日の丸が並び立つ絵が必要だったのである。
確保された橋頭保へさらに2個師団(第25師団、第7師団)が上陸し、ゼークトラインを迂回して中華民国軍の後方へ進出したため、中華民国軍は逆包囲の危機に陥った。
ゼークトラインとは、中華民国軍がドイツから招聘した軍事顧問団のトップだったハンス・フォン・ゼークトの名にちなむ大量のトーチカによる要塞線だった。
中華民国軍の狙いは、恐怖爆撃等で日竜を挑発した上で、日竜陸軍をゼークトラインに引き込んで、第一次世界大戦流の消耗戦を強要することだった。
日竜陸軍からしてみれば、
「そこは我々が20年前に通過した地点」
という他ない古い戦術思想だった。
固定された要塞線は迂回攻撃に対して無力だった。
後方遮断の危機に陥った中華民国軍は、一斉に陣地を捨ててて撤退を開始したため、要塞は有名無実なものとなった。
どれだけ強固な要塞であっても、歩兵が籠っていない要塞は形骸である。
あとは逃げる中華民国軍をひたすら追撃、殲滅するだけだった。
迂回攻撃や追撃戦の先頭に立ったのは第7師団だった。
第7師団は、北鎮師団として名高く、日竜陸軍で最初に戦車師団に改編された師団である。
精鋭師団として新式装備を優先的に手当されており、新鋭の九七式中戦車を装備していた。
九七式中戦車は、上海事変で世界水準を遥かに上回る性能を各国の観戦武官に見せつけて、各国の戦車開発を一変させた。
所謂、「チハたんショック」である。
チハの由来は「中戦車」のチと「イロハニホヘト」のハ。つまり、中戦車の3番目に開発された事を表している。
ローマ字表記と英語を併用するとchi-ha tankとなる。
外国の観戦武官からすると「チハタンク」となるはずだが、当局はクは苦を連想させるため縁起が悪いとして、チハたんと呼ぶように特別な指導していた。
国内向けの報道機関でも同様の措置がとられた。
しかし、チハ以外の戦車ではそうした指導が行われた形跡がなく、なぜチハだけが特別扱いされたのかは不明である。
龍宮内親王の特殊性癖という説もあるが、真偽のほどは定かではない。
それはさておき、第7師団はチハ以外にも、九七式装甲兵車(APC)や九七式砲戦車(SPG)といった各種装甲戦闘車両が配備されていた。
上海事変には間に合わなかったが、45t級の要塞攻撃用重戦車の九七式重戦車もあった。
各車両が制式採用された1937年は、陸軍装甲化元年と呼べる年で、一気に陸軍の機械化率が高まった。
それも上海事変における第7師団の機動戦闘によって、これらの車両が有効であることが実戦で証明されたことが大きかった。
1937年11月までに日竜軍は上海前面から70万(自称)の中華民国軍を一掃し、中華民国の首都である南京に迫った。
もちろん、龍宮内親王の停戦意向を無視して、南京一番乗りを目指す無作法な軍人は日竜陸軍には一人もいないので、各部隊は南京の手前で行儀よく停止した。
龍宮内親王は、和平の斡旋をディルクゼン駐日ドイツ大使に依頼していた。
ドイツが選ばれたのは、ドイツが中華民国の政軍に深く関わっていたためである。
オスカー・トラウトマン駐華ドイツ大使が、交渉にあたったため、トラウトマン和平工作と呼ばれることもある。
龍宮内親王が示した和平案のポイントは、上海事変以前の状態への復帰と恐怖爆撃によって発生した民間人被害者への慰謝料の支払い、そして戦争犯罪者の処罰だった。
戦争犯罪者の処罰以外は、勝者の日竜が示す提案としては殆ど白紙講和に近い内容だった。
同盟国やドイツは、日竜が巨額の賠償金や領土の割譲を要求するのではないかと心配していたが、そうした懸念は杞憂に終わった。
日竜は、中華民国の現状維持を定めた9カ国条約を遵守し、領土の要求や経済的な利権を要求を自制した。
日竜の和平案は、オーストラリアといった竜宮人に決して好意的ではない国でさえ、日竜の自制心と寛大さには敬意を現わしたほどだった。
和平案には妙な付帯条項が付属していたが、それは後述する。
争点となったのは、戦争犯罪者の処罰だった。
龍宮内親王は、恐怖爆撃という戦争犯罪の容疑者として蔣介石をハーグの常設国際司法裁判所へ引き渡すことが求めていた。
1928年に結ばれたパリ不戦条約においては、「国際紛争解決のため、および国策遂行の手段としての戦争を放棄すること」と定められており、中華民国の行動は明確にパリ不戦条約違反だったからである。
ちなみに戦争犯罪の容疑者として指名されたのは、蔣介石一人だけである。
ほかの政府閣僚や実行犯である軍の幹部については不問にされた。
要するに、蔣介石をハーグ送りにすれば、中華民国としては殆ど無罪放免と言っても過言ではなかった。
こうした寛大な対応は、国内強硬派からは不満も出たが、表立って龍宮内親王に異議を申し立てる人物はいなかった。
そんなことをしたら、
「樺太で木の数を数えるという面白い仕事があるのだけど、どうかしら?」
と言われかねないためである。
軍事的に完敗し、首都に王手をかけられた国としては、王が詰め腹を切る他に道はなかった。
それで王様以外は全て救われるのである。
ただし、龍宮内親王はトラウトマン大使に対して、
「しかし、そうはならんだろうな」
と嘯き、和平交渉が失敗に終わると予想していた節がある。
実際に和平交渉は失敗に終わった。
南京から蒋介石が逃亡したのである。
全ての部下と政府機能を置き去りにして、飛行機で重慶に逃れた蔣介石は改めて日竜に対して宣戦布告した。
これに対して龍宮内親王は、
「もはや蒋介石は相手とせず」
と返答し、南京に置き去りにされた中華民国政府と停戦協定を結んだ。
蒋介石が逃亡したあと南京に残された政府機能をまとめたのは汪兆銘だった。
破産寸前の国家をいきなり預けられた汪兆銘は、停戦協定のために自分の首を差し出す覚悟だったが、龍宮内親王は和平の条件を変更しなかった。
悪は蔣介石一人だけであり、他は蔣介石の悪事に振り回された被害者であるという姿勢を崩さなかった。
龍宮内親王の態度は悪魔的な温情といえなくもなかった。
以後、中華民国は沿岸部の南京政府と奥地の重慶政府の分裂状態に陥ったからである。
悪いのは逃亡した蒋介石一人だけと言われたら、誰もが頷く他なかった。
異論や反論もないわけではなかったが、
「じゃあ、君があのピーナッツ野郎の代わりに責任をとってくれるのか?」
と尋ねられたら、蒋介石打倒を叫ぶほかない。
日竜軍は停戦協定を結ぶとさっさと中原から撤退した。
重慶政府との戦争なら、日竜から捕虜の解放や武器の返却、さらに海援隊の傭兵契約を結んだ南京政府だけでも十分だったからである。
ただし、南京政府は航空戦力に欠けていたため、空軍は一部の部隊が駐留を続けて蔣介石をターゲットにした重慶爆撃を続けることになる。
重慶爆撃に投入されたのが、日竜空軍初の戦略爆撃機である九七式重爆撃機となる。
海援隊傘下のハインケル社が開発した高速重爆撃機は、2基の液冷エンジンを合体させて、巨大なプロペラを回すという特殊なメカニズムを採用していた。
そのため、一見すると双発機に見えるが実は4発機という分かったような分からない機体で、エンジンに起因するトラブルが多い機体ではあった。
その為、少数生産に終わったが、デビュー戦となった重慶爆撃では、戦闘機の迎撃も対空砲火も届かない高高度から誘導爆弾を用いて、蒋介石抹殺を試みた。
最新兵器の誘導爆弾が投入されたのは、民間人の付帯被害を減らすためだった。
シベリア鉄道の橋梁爆破用に開発された最新兵器のターゲットが、一個人というのも妙な話だったが、もはや問題は徹底抗戦を叫ぶ蔣介石ただ一人だけだった。
投入されたイ号一型甲無線誘導弾は、目視照準手動指令誘導式という黎明期の誘導爆弾だった。
高高度から投下されるとイ号は尾部フレアを炊きながら落下し、爆撃手は爆撃照準器で目標と捉えながら、無線誘導装置に連動した十字キーを使って落下する爆弾を操作する。
爆撃目標を目視しつづける必要があり、爆弾の誘導にも一定の技量が必要であるため、晴天でなければ使用できず、母機は回避運動をとることができないといった制約がある。
しかし、重慶爆撃では対空砲火や戦闘機の迎撃が貧弱だったことから、そうした制約が緩和されたので8割近い命中率を発揮した。
残念ながら爆撃による蔣介石抹殺は失敗したが、蒋介石の取り巻きの心胆を寒からしめる効果はあった。
ピンポイント爆撃は、日竜の明確な殺意表明だった。
1938年7月9日、部下の裏切りによって、蔣介石は処刑された。
蔣介石の唱える反日排竜に、もう誰もついていけなかったのである。
殆どの中国人は身内同士の無意味な戦争にうんざりしていた。
蒋介石の周囲はソ連から来た軍事顧問団と中国共産党で囲まれており、重慶政府の実態はソ連の傀儡政権だった。
ここに至っては、裏で糸を引いていたのが誰なのかは明らかだった。
武器弾薬ならソ連から潤沢に届いていたが、前線は士気喪失で逃亡兵が続出して崩壊しつつあり、このまま戦い続けても先がなかった。
それなら蔣介石の首を差し出して、汪兆銘に頭を下げた方がマシだった。
悪いのは蔣介石ただ一人だけなのである。
ただし、裏切りは気がとがめたのか、当初は逮捕、軟禁する予定だったらしい。
らしいというのは、関係者が直後に重慶爆撃で蔣介石の遺体もろとも吹き飛んでしまったため、詳細が分からなくなっているためである。
生き残りの証言によれば、逮捕されると分かった蒋介石は抵抗を試みたらしい。
数人の兵士が蔣介石を取り押さえようとしたが、逆にねじ伏せられ、手に余ったためやむを得ず射殺することになった。
しかし、銃弾数十発を浴びても蔣介石は死亡しなかったため軍刀で首を切断した。
それでも蔣介石はしばらく死に至らず、怪力によって裏切者を素手で殺害したという。
さすがにこれは与太話が過ぎるので、筆者としてはホラー・エンターテイメントの一種としてご紹介するだけに留めるところである。
蒋介石の死によって、重慶政府は崩壊し、中原に一応の平和が戻った。
中華民国軍による上海爆撃から、蒋介石の死までおよそ1年だったことから、1年戦争と呼ばれることも多い。
日中軍の正面衝突は、正味5カ月というスピード決着だった。
それでも、これまでの戦乱で傷ついた国土はさらに深い傷を負っていた。
物的損害のみならず、多くの前途ある若者が戦場で倒れたのである。
しかし、生き残ったものには荒廃した国家を再建する義務があった。
日竜政府は、中国再建のために復興支援を表明した。
対中円借款の減免なども快く応じた。
さらに敵国のはずの中国人留学生の大量受け入れを表明し、若年世代の交流を促進するなど、はたから見て不気味なほど温情ある態度を示した。
こうした態度は戦時中も同様であり、捕虜に対して極めて人道的な対応を示した。
汪兆銘などは、新手の策略なのではないかと疑ったほどだった
また、講和の条件に日本製映画の輸入と上演の義務化を盛り込んだ日竜の思考は、完全に理解不能だった。
上海事変以前は、日本製映画の輸入は禁止されていた。
性的描写が多すぎるからである。
日本製映画はどんな内容の映画でも、必ず濡れ場があったし、そうでなければならないという暗黙のルールがあるようだった。
インド映画にダンスシーンが欠かせないのと同じ理屈である。
よって、日本映画は海外では一部のアンダーグラウンドな映画館でのみ上映されており、各国にも地下ルートで輸出されていたが、当局の摘発は免れなかった。
中国全土で解禁となった日本映画は、荒んでいた世相の中国で多いに好評となり、濡れ場女優の葵ソラなどは一時期、最も中国で有名な日本人となった。
中国への映画輸出成功で、日本は文化輸出に自信を深めた。
まことに奇妙な話だが、日竜は昭和維新以後、やたら文化の輸出に力を入れていた。
別にそれで外貨を獲得しようという話ではなかった。
むしろ、事業としては常に赤字だった。
大東亜文化共栄圏という単語が考案されたのも同時期である。
その主旨は、日本文化を輸出することで、アジア各国から「共感」を得ることを通じ、日竜のブランド力を高めるとともに、日竜への愛情を有する外国人(日竜ファン)を増やすことで、日竜の外交力を強化することにあった。
日本人は、これを明治以来の開国性交の発展形だと考えていた。
しかし、実際には極めて国粋性交(竜宮右派)的な考え方である。
ある種の文化的な侵略という表現も可能な政策だからである。
大東亜文化共栄圏といった国家社会主義時代の国粋性交を理論的に支えたのが、ゲッベルス予想である。
ゲッベルス予想とは、龍宮内親王の腹心として来日したヨーゼフ・ゲッベルス博士が発表した竜宮人受容に関する論文だった。
ゲッベルス博士は、竜宮人差別が多いドイツでは例外的な親竜宮派だった。
ゲッベルス博士は、ドイツ時代に排外主義的な主張を繰り返す極右政党に所属していたこともあったから、親竜宮派への転身は様々な憶測を呼んだ。
決して、本人が性欲過多で妻が妊娠中に浮気する相手として竜宮人があとくされがなくて便利だったとかそういうわけではない。
ゲッベルス博士の説明によれば、弁舌家の博士は右派の軍隊的な雰囲気についていけなくなり、決別することになったそうである。
極右政党のボス的な存在だったエルンスト・レームから同性愛の誘いがあって、肛門の危機を覚えたとかそういうわけではない。
それでは、決別ではなく、ケツ別になってしまう。
クソみそな話はさておき、ゲッベルス博士は、政治活動から足を洗うと竜宮資本のリーベストランク社の広告部門に身を寄せた。
広告業務の中で、弁舌家の博士はアドマンとしての才能を開花させた。
特に当時としては珍しかったラジオCMの運用や、大規模な広告イベントの開催などで、天才的な才覚を示したのである。
欧州亡命時代に人材探しをしていた龍宮内親王からゲッベルス博士に接近し、博士は内親王に対して自身の才覚をプレゼンテーションした。
ゲッベルス予想の初出は、そのプレゼンの中だった。
ゲッベルス博士は、日日の広告業務の中から、竜宮人の受容について重要な発見があったと主張した。
博士は、自社製品(媚薬)の販売広告の中で、新製品にドイツ語ではなく、エスニックな雰囲気を出すために敢えて日本語を使用するアイデアを試したところ、売上に大きな変化があることに気が付いた。
例えば、「絶倫無双」という商品名では、竜宮人が多い地域では売上が拡大した。
同じ製品をドイツ語「ウンバーライヒリッギ」でリリースすると、同じ地域であっても売上は減少した。
商品名だけで売上が上下することは、不自然なことだった。
博士はさらにアンケート調査を重ね、「絶倫無双」を使用する竜宮人とドイツ人のカップルと「ウンバーライヒリッギ」を使用する竜宮人とドイツ人のカップルでは、夫婦生活(夜)の満足度に有意に違いがあると明らかにした。
「絶倫無双」を使用する家庭では、竜宮人はドイツ語が不得手なことが多く、日常会話はドイツ語と日本語の使用割合が1対1だった。
家庭内での意思疎通でも困る場面が多いはずなのに、夫婦生活(夜)の満足度は高かった。
逆に「ウンバーライヒリッギ」を購入する家庭では、日常会話はドイツ語だった。意思疎通に困難がない状態であるにもかかわらず、夫婦生活(夜)の満足度は全体的に低くかった。
そこでゲッベルス博士は、実験として商品名を「絶倫無双」で統一したところ、内容物は全く同じでも、「ウンバーライヒリッギ」を使用していた家庭において、僅かに夜の生活の満足度が向上することを確認した。
そこから広告を使った実験を重ね、大量の広告によって日本文化を日常的に触れることができる状態にすれば、竜宮人への差別感情を有意に軽減できることを確認した。
統計学的にみて、日本文化の受容と竜宮人の受容には相関関係があり、欧米でも日本文化の流入が多い地域では、竜宮人差別が少ない。
逆にドイツや東欧、ロシアなど、日本文化と接点が少ない地域では、竜宮人への差別・無理解が多く、SAN値チェックが必要な地域が多かった。
要するにゲッベルス予想とは、
「日本文化が分からない奴には、竜宮人の良さが分からない」
という身も蓋もない話だった。
ちなみに論文としては成立しておらず、学会での査読も却下されている。
科学を名乗るには、あまりにも牽強付会が過ぎる内容だった。
はっきりいえば、与太話の類と言える。
まるで日本語フォーマットをインストールしたため、他言語では誤作動を起こすパソコンのように竜宮人を扱う話だった。
このプレゼンを受けた内親王に不快になり、無言で会談を終えた。
何しろ、ゲッベルス博士の主張は、幕末以来、竜宮人が身命をとしてきた開国性交の全否定だったからだ。
移民として世界各地に散らばって暮らす竜宮人は、少しでも現地に溶け込み、自分達を受け入れて貰えるようにあらゆる努力を重ねてきた。
移民として竜宮人は模範的と言える態度(性的なものは除く)を示してきた。
血を流せと言われれば、20万人が死んだ。
言葉や習慣や顔かたちさえ全て書き換えて、移民先で理想の美少女として振る舞ってきた。
それが全部無意味で、逆効果だったと言われれば不快にもなる。
焦った博士は弁明の手紙を書き送るなどしたが、返信として送られてきたのは、海援隊幹部への昇進通知だった。
昭和維新後、ゲッベルス博士は新設された宣伝省の最高顧問として招聘された。
事実上の宣伝大臣として、ゲッベルスは皇民化政策(強制同一化政策)を強力に推進した。
台湾や朝鮮といった植民地では、創氏改名や日本語教育が徹底化され、地名も日本風に書き換えられた。
衛星国の満州王国では、元々、公用語として日本語が使われていたが、青少年への日本語教育が徹底されるようになる。
アフリカ委任統治領でも、日本文化を広める努力がなされた。
これは余談だが、タンザニアにおいて国技に指定されているタンザニアスモウは、1930年代に日本化教育の過程で生まれた総合格闘技の一種である。
パンツスタイルとなって円形のリングで戦うところは日竜の相撲と同じだが、打撃技が許可されている他、開催スタイルがトーナメント制になっており、年1回行われる全国大会は天下一武道会と呼ばれている。
大会優勝者には莫大な賞金がテンノウノシノギとして与えられる。
それはさておき、日竜は日本文化輸出を国策として推進した。
ただし、文化輸出は成功しなかった。
当事者の日本人が、自分たちの伝統よりも西欧文化の方が優れていると考えていたからだ。
日本家屋を取り壊して建て直すときは鉄筋コンクリート造のマンションになり、伝統的な日本の田園地帯を潰して高速道路や石油コンビナートを作ることが社会の発展だと信じていた。
和服を捨てて洋服を着こなし、丁髷ではなくポマードで頭髪を整えて、キャバレーで模造ウイスキーや砂糖入りの甘ったるいワインを飲んだり、ミルクホールでダンスに興じることが最新の流行になっていた。
銀座を闊歩するモダンボーイ、モダンガールなどは、一体、どこを目指しているのですか?と小一時間問い詰めたくなる衝動にゲッベルスは駆られた。
ゲッベルスは、伝統的な日本の街並みをあっさりと破壊して、美的感覚の欠片もない雑然としたコンクリート造の街並みに作り直す日本人の行いに頭を抱えたと言われている。
今日において、日本各地に残る重要建築文化財や地方無形文化財などは、ゲッベルス宣伝大臣の奔走によって救われたとさえ言える。
日本の文化輸出が成功し、地球の隅々まで日本文化由来のものが溢れるようになるのは、1960年代に漫画の神様が現れ、原子力ロボットが空を飛び、宇宙戦艦が銀河の果てへと大航海に出発し、城が天空に飛び、谷に風が吹いて、黒鉄の巨人が合体変形したり、人型機動兵器が主役の戦争が勃発し、青ざめたネコ型ロボットがお茶の間に現れて、月に代わってお仕置きされたあとで、それらのエッセンスをさらに煮詰めて発酵させ、発芽性を獲得したイラストレーションが企業のネットによって、人々の持つ携帯情報端末に邪魔くさい広告として表示されるようになったあとのことである。
当時は漸く列強国でラジオが普及した程度だった。
文化の先進地域はロンドンか、パリか、ニューヨークで、日竜は半魚人と侍が住む東の果てにあるエキゾチック国という印象しかなかった。
大量且つ高速に日本文化を拡散する術は極めて限られていたのだ。
ちなみに、ゲッベルス博士はいつまで経っても自分の名前を間違え続ける日本人に嫌気がさし、何度も辞表を出そうとして、そのたび内親王から遺留された。
自分の名前はゲッペルスではなく、ゲッベルスだと力説するゲッペルス博士の様子が8mmフィルムに残されており、現在も動画サイトなどで視聴することができる。
話が逸れたが、国家社会主義時代において国粋性交は理論的な後押しを得て国策となり、国内外に大きな影響を及ぼした。
陸軍においては、北進論が主流となり、政府ではシベリア生存圏の獲得が議論された。
シベリア生存圏とは、共産主義撲滅後にウラル山脈から東の地域に竜宮人を入植させ、現地のロシア人を皇民化するという政策である。
国家存続のための地下資源を英連邦からの輸入に頼る現状を不安定なものとみなす陸軍統制派や竜宮右派勢力から、シベリア生存圏構想は熱狂的に支持された。
龍宮内親王は、開国性交が限界に突き当り、言語の壁を超えて竜宮人の良さを伝える術がない以上は、日竜が軍事的・政治的な絶対的優越=覇権を確立し、人々を強制的に皇民化するしか道はないと考えた。
そのための戦いは、理想の美少女を紳士にお届けするための聖戦であるとした。
シベリア制覇は聖戦完遂の第一歩であり、次段階では欧露を越えてヨーロッパやインド亜大陸を含むユーラシア大陸の軍事的、政治的な覇権を確立し、最終的には日竜が北米を含む全世界の指導国となる構想だった。
つまり、日竜による平和(パックス・ジャパン=ドラゴニカ)である。
世界征服と言い換えることもできるだろう。
MI6などによる諜報活動のみならず、公式文書の収集で日竜の政策目標を掴んだ同盟国の政府関係者は、全員冗談だろうと考えた。
さすがにそんなバカなことをしないだろうと誰もが考えたのである。
また、竜宮人が変なのははいつものことなので、今更、奇行の一つや二つが増えたところで変わらないと思われた。
変態が変なことをするのは、むしろ正常であるからだ。
それよりも、懸念すべきことは植民地人の不穏な動向だった。
上海事変の勃発を受けて、合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトは、シカゴで以下のようなステートメントを発表していた。
「世界の90%の人々の平和と自由と安全は、全ての国際秩序と国際法との破壊を目論む残り10%の人々によって、脅かされつつありますス。世界的無法状態という疫病が広がりつつあるというのは、残念ながら真実らしいでス。体の病の流行が広がり始めた場合、共同体は病の蔓延から共同体の健全性を守るため、患者の隔離を承認し、これに参加する必要がありまス」