ビバ!国家社会主義!
ビバ!国家社会主義!
合衆国ウォール街発の世界大恐慌は、経済に自立回復が不可能な打撃を与え、第一次世界大戦後に作られた国際秩序を揺さぶった。
経済対策に失敗した国では、既存の政治勢力が民意を失って失脚していった。
1930年9月の日竜はまさにその典型例といえた。
大正デモクラシーは経済運営に失敗しつづけた挙句、昭和維新という東洋的な革命によって退場を余儀なくされたのである。
昭和維新以後、日竜は摂政の龍宮内親王による国家社会主義時代を迎える。
当初、各国はそれほどの日竜の政変に注意を払わなかった。
なにしろ遠い極東の出来事であったし、摂政として国政を掌握した龍宮内親王は欧州での亡命生活が長く、政治経験が乏しい人物だと考えられていた。
新政権の寿命は1年程度だと見る識者も多かった。
しかし、龍宮内親王は辣腕を振るって1934年までに国内経済を立て直し、世界大恐慌前か、それ以上の水準に経済を拡大させると評価は一変した。
日竜経済を世界大恐慌からいち早く立ち直らせたのは、独裁的な手法で実行された国家社会主義政策が正しいものだったからである。
またの名を高橋財政ともいう。
高橋財政の特徴は、金本位制度から離脱と国債の日銀直接引き受けという金融緩和、そして軍事部門を含む広範囲の公共投資と減税だった。
軍事部門においては、ロンドン海軍軍縮条約を部分参加に留めて、公共事業として海軍拡張が続けられた。
1931年度から4年度連続で起工された蒼龍型空母などはその象徴と言える。
蒼龍型空母は、龍飛、龍驤といった10,000tクラスの実験艦を経て、完成形へと向かう日竜型空母の試作艦と言える船だった。
ロンドン海軍軍縮条約では、龍飛や龍驤といった10,000t以下の空母も制限対象となった。そのため、日竜海軍は残りの保有枠60,000tを4分割して、15,000t級の空母4隻を試作した。
試作艦らしく4隻全ての設計がそれぞれ異なり、1番艦の蒼龍と4番艦の幡龍では同型艦ととは思えないほどに異なる外見を有している。
3番艦の白龍は機関をオール・ディーゼルにするなど、様々な新技術が導入された。
空母以外にも、八十八艦隊構想に基づき新型の伊号潜水艦や局地防衛用の豆潜水艦なども続々と建造され、各地の造船所にとっては明るいニュースとなった。
海軍拡張はさらに続き、1936年の第二次ロンドン海軍軍縮条約を経て、海軍休日は終わりを迎えることになる。
陸軍においても戦車師団編制が始まるのが1931年のことで、陸軍航空隊は予算倍増の上で、1933年に空軍として独立することになる。
日竜空軍の建軍は、何かにつけムッソリーニの真似をしたがる龍宮内親王の肝入り事業だった。
しかし、建軍は基本的に竜宮人に遠慮を願う形で行われた。
竜宮人は、どういうわけか飛行機は円盤型でなければならないという信念にとりつかれており、まともな形の飛行機を作ることができなかったからである。
それだけならまだなんとかなるのだが、飛行機とは大気圏を離脱していくものだという信念についてはどうにもならなかった。
竜宮人全般にとっては、天空とは、主に宇宙を意味していた。
遠い未来ならいざ知らず、複葉機が主体だった当時で、航宙戦力を構築するのは無理があった。
陸軍から転籍して、最終的に空軍参謀総長に上り詰めた東条英機空軍大将は、日竜空軍の建設は常に大気圏離脱との戦いだったと後に振り返っている。
それはさておき、軍需のみならず民生への投資も拡大し、1932年に日竜アウトストラーダ公団が発足した。
アウトストラーダとは、イタリア語で高速道路を意味しており、全てを日訳すれば日本高速道路公団となる。
なぜ、そうしなかったかといえば、日竜アウトストラーダ公団が龍宮内親王がイタリアから輸入したファシズム運動の中核的な国家事業だったためである。
1924年にミラノ-ガッララーテ間を結んだアウトストラーダが世界初の「一般用高速道路」となる。
アウトストラーダ以前にも娯楽目的の自動車専用道路や軍用道路は既に存在していたが、一般向けの国内インフラと呼べるものではなかった。
龍宮内親王は、欧州亡命時代に世界初の高速道路を竜宮人として初めて自動車走行して感銘を受け、次世代の基幹産業として自動車産業の振興を決意したと言われている。
決して、カーセックスが思いのほか刺激的だったという理由ではない。
ちなみにこの場合のカーセックスとは、車内での性交を意味しており、車本体に性的な興奮を覚える特殊性癖を意味していない。
しかし、自動車全般に対して龍宮内親王が艶めかしい視線を向けていたという証言は数多い。
自動車の新車カタログを寝室に持ち込んでいたという噂もある。
それはさておき、1932年4月には鉄道省の一部局だった道路行政が、道路省に格上げされた。
同年8月には龍宮内親王が自ら鍬入れ式を行って、早くも東京ー大阪間を結ぶ東名・名阪高速道路の建設が始められた。
日竜アウストラーダ公団は、失業者対策という側面があり、当初の人員は700名程度だったが、3年後には10万人の人員を要する大土木技術者集団となっていた。
日本アウストラーダ公団では、日本で初めて公式に週休二日制や一日8時間労働が導入され、今後の日竜企業のあるべき労働環境のモデルケースとして盛んに喧伝された。
1934年に国民車構想が発表され、1936年までに豊田自動車や日産自動車といった日本系企業の生産する大衆車が出そろって、日竜は本格的なモータリゼーションを迎えることになる。
東名・名阪高速道路が全線開通したのは1939年だった。
日竜初の高速道路の開通が想定より順調だったのは、同時期に政府が進めた農地改革で強制的な土地収用が進められていたことが大きい。
農地改革は、前近代的な地主制度解体を意図して始められた。
農村の疲弊は構造的な問題であり、問題の根源は明治維新にまで遡る根の深い問題だった。
明治維新後、年貢が物納から金納(地租改正)になると、多くの農民はその支払い方法に頭を悩ませた。
米を売却して金に換える方法を知らなかったからだ。
それまで200年以上も米で税を収めていたため、殆どの農民には米を換金するノウハウがなかった。
結果、ノウハウをもつ富農に、農民は土地を預けて小作人となり、米の換金を地主に丸投げすることになった。
地主は米の現金化で資本を蓄積して明治時代の資本家層になった。
地主=資本家は、米作よりも利益率が高い商工業に投資をするようになり、ますます資本を蓄積することに成功したが、農村は捨て置かれた。
農村は投資に値しなかったからだ。
海外貿易で大量の穀物が輸入されるようになった明治時代に、米価は下落の一途をたどっており、農村に投資しても、リターンがなかった。
結果として、農村は小作料だけ吸い上げられて、江戸時代の生活を続けることとなり、都市生活者との所得格差を広げ、社会不安の温床になり果てていた。
しかし、財界人や皇族・華族といった地主層は農地改革に激しく抵抗した。
既得権を手放したくないのは、いつの時代も誰であっても同じ真理である。
しかし、親衛隊、警察権力といった公的暴力組織の投入で農地改革は断行された。
結果として、日本の農村は殆ど小規模自作農となった。
併せて設置された農業協同組合を通じて公的融資や国庫補助を得ることができるようになり、遅れていた農村の近代化が漸く進むことになる。
龍宮内親王が強引な手法を用いてでも農村の近代化を急いだのは、陸軍の青年将校から忠誠の言葉を引き出すという意味があった。
青年将校の多くは貧しい農村出身者だったから、農村への厚い手当は効果が大きかった。
7割竜宮人の海軍はともかくとして、政権獲得からしばらくは陸軍との関係は微妙なところがあったのである。
また、工業化に必要な労働力を確保するためにも、農村を機械化して人的資源を吐き出させる必要があった。
農地改革で収用された土地は、全て小作農に分け与えられたわけではなく、他の用途(高速道路建設やコンビナート建設)にも転用された。
ただし、農地転用は農地改革の主旨を逸脱した脱法行為であり、耕作地を高速道路に転用された農民が政府を相手に集団訴訟を起こしていたりもする。
そのため、以後の高速道路整備は東名・名阪ほど迅速に建設されなかった。
それでも1940年までに総延長4,000kmが整備され、第二次世界大戦勃発後も資材をやりくりして建設が続けられることになる。
農地改革や高速道路建設といった公共事業の他にも国家社会主義改革として、様々な分野で企業の国営化が進められた。
鉄道、電力や水道、ガスといったインフラ事業は90%が国営化され、銀行業も70%が国営化されることになった。
企業の国営化が進められたのは、雇用安定化のためだった。
20世紀初頭の日竜の雇用慣習は、米国流に近いもので、安定性が低かった。
労働者の多くもそれを受け入れて、複数の企業を渡り歩いて技を磨く職人気質が多く、生産設備の近代化に抵抗していた。
ベルトコンベア式のマスプロダクションには、職人芸が出る幕などないからだ。
生産近代化のためには職人を排除する必要があり、そのためには職人を終身雇用のサラリーマンへと変えていく必要があったのである。
さらに企業利益が株主への配当へ流出していることも問題だった。
たしかに株式会社である以上、出資者への利益還元は必須である。
しかし、国家総力戦体制のために優先されるべきは生産力拡大のための設備投資と安定した賃上げだった。
既存企業の国営化だけではなく、新規の国営企業も立ち上げられた。
1934年には日竜航空が作られ、国家主導で本格的にエアライン整備が始まる。
ここでも竜宮人が極力、関わらない方法で話が進められた。
航続距離が無限にある円盤型の垂直離着陸機で、自宅前から宇宙へと飛び立てる世界は当分、来そうにないからだ。
逆に竜宮人100%で設置されたのが、宇宙開発公社となる。
なお、宇宙開発公社が誕生したのは、日竜航空よりも3年早い1931年のことだった。
宇宙開発公社については日本人を含めて、殆どの人々は正気を疑う目を向けたが、竜宮人だけは本気の本気だった。
龍宮内親王は、宇宙開発公社に対して日竜アウトストラーダ公団に次ぐ優先権を与えており、
「10年以内に人工衛星を打ち上げる」
と発表して、一大センセーションを巻き起こした。
ちなみに発表前の原稿では、10年以内に有人宇宙船(恒星間航行可能)をつくるというものだったが、さすがに無謀だったので差し替えられた。
当時の空を飛ぶものの大半が布張りの複葉機だったことを考えれば、宇宙ロケットなど夢想すら追いつかない存在だった。
ただし、竜宮人の技術者たちは宇宙ロケットを自明の存在だと考えている節があった。
なぜそこまで確信めいたものがあるのか、当の竜宮人でさえ説明ができていなかった。
まるで昔、それに乗ってこの星に不時着したことがあるかのような雰囲気さえあった。
宇宙開発公社の中心人物となったのは、糸川竜夫博士である。
日竜の宇宙開発を主導した糸川博士のポートレート。
若干、二十歳の若き竜宮人の天才と寝食を共にしたスタッフの平均年齢は25歳だった。
彼らが基地としたのは、沖縄県北部の人口希薄地帯に作られたヤンバル宇宙基地である。
ロケットの燃焼に耐える耐熱コンクリートの色が白く見えたことから、関係者はホワイトベースと呼んでいた。
若さと情熱だけでロケットが飛ぶのかと揶揄されたりしたが、本当に日竜のロケットは宇宙を飛んだ。
1936年4月29日、宇宙開発公社はサラミス・ロケットの打ち上げに成功した。
サラミス・ロケットはエタノールと液体酸素を推進剤とする単段式液体燃料ロケットで、高度88kmに達して宇宙空間に到達した初の人工物体となった。
その後サラミス・ロケットは3段式のマルチクラスターエンジンを持つ、マゼラン・ロケットに発展し、1939年11月3日に低軌道に人工衛星を送り込んだ。
世界初の人工衛星となったハヤブサ1号は僅か25kgで、電池寿命は僅か12時間しかなく、短波信号を発信するしか能がない代物だった。
しかし、日竜がもつ先進技術を諸外国に示すには十分だった。
なぜなら衛星の代わりに爆薬を積んで行先を宇宙から地上に変えれば、マゼラン・ロケットでモスクワやニューヨークを爆撃できるからだ。
大洋を飛び越え、即座に敵国首都を攻撃できる兵器の登場である。
つまり、大洋間弾道弾だった。
場合によっては、大陸間弾道弾と表記する場合もある。
ただし、マゼラン・ロケットは発射に大がかりな設備が必要であることや、ウェットマスが100kg以下であることから、攻撃兵器としての実用性は皆無だった。
ただし、弾頭を通常ではないものに変更すれば、その限りではない。
アインシュタインの相対性理論を応用した爆弾を使用すれば、例え弾頭重量が100kg以下であっても、都市をまるごと一つ吹き飛ばすことはできる。
しかしながら、竜宮人はしばらく、その可能性に気がつかなかった。
何しろ、彼らとっては核反応とは、推進機に使うものであって、爆弾に使用するものではなかったからだ。
糸川博士は、かなり早い段階から化学反応推進の限界を予見しており、宇宙開発公社が完成させるべき宇宙ロケット(宇宙船)は核反応推進であるべきだと考えていた。
核反応推進とは、核爆発を連続して発生させ、その爆圧をプレートで受けとめた反動で推進する方式である。
化学反応推進よりも大きな推力(何しろ核爆発だ)が得られるため、巨大宇宙船の推進機としてはうってつけだった。
核パルスエンジンともいう。
そのエンジンを暴走状態にさせて、大都市を吹き飛ばすという発想が竜宮人にはなかった。
何しろ、エンジンが暴走したら、船が終わってしまうからだ。
とある陸軍将校が、
「核爆発を連続させる必要はありません。1つで十分ですよ。分かってくださいよ」
と言うまで、誰も核爆弾としての利用法を思いつかなかった。
日竜以外の諸外国が人工衛星打ち上げに成功するのは1950年代に入ってからで、21世紀現在においても日竜の宇宙技術は他の追随を許していない。
話を30年代に戻すが、社会保障制度が整備されたのも、国家社会主義時代だった。
国民皆保険制度と国民年金は、昭和維新以前は社会主義として否定されてきた政策であり、国家社会主義運動がなければ導入不可能だった。
こうした諸政策によって、1935年までに完全雇用が達成され、毎年10%ずつGDPが拡大するなど、高度経済成長となった。
人々は、日ごとに豊かになる生活と輝かしい科学の発展に酔いしれた。
1935年に宇宙ロケット用エンジンを転用した速度試験機で、人類で最初に音の壁を越えて世界最速の男になった源田実大尉は、
「我が竜宮の科学力は世界一ィィィ!できんことはないイイィーッ!」
と叫び、世論の喝采得たが、これは当時の人々の思っていたことを代弁したにすぎない。
世論の支持を強固なものにした国家社会主義労働党が1936年2月26日の第19回衆議院選挙で議席の95%を獲得した。
結果、既に形骸ではあったが、議会は政府の提案を追認する機関となった。
ファシズムは、民主主義によって完成したとも言える。
摂政の龍宮内親王は、黒シャツで染まった帝国議会の開院式で勅書を読み上げ、
「国家社会主義、万歳!」
の3回斉唱のあと、万来の拍手を受けた。
ちなみにこの時の様子は、世界初の公共テレビジョン放送で全国に中継された。
日竜の高度経済成長の成功によって、ファシズムに対して政党政治は時代遅れではないかという意見もささやかれる情勢となった。
同盟国のイギリスは、日竜の権威主義化に小言を言ったが、過度な干渉は避けた。
何しろ、高度経済成長期に突入した日竜はドル箱市場だった。
1939年には、GDPが世界第3位まで拡大するのだから、この波に乗り遅れるのは愚かなことだった。
高橋財政が始まると為替相場が円安にふれて輸出が拡大し、イギリスのスターリング・ブロック内で日竜企業が躍進するなど、イギリス企業にとって脅威になった。
しかし、金融帝国化していたイギリス経済にとっては、内需拡大政策で経済成長をとげる日竜への投資はリターンが大きく、英連邦各国からの資源輸入拡大も魅力的だった。
前者は不労所得で、後者は植民地人に地面を掘らせるだけでいいのだから、汗水たらして働く必要がない本国人にとっては結構な話である。
購買力がなく市場としての魅力に乏しかった日竜が、経済成長によって消費地としての魅力を増していったことも大きかった。
日竜は市場開放を掲げて、外資誘致にも熱心だったのである。
人件費が高く、労働組合の力が強い本国工場で生産して輸出するよりも、税優遇があり、しかも人件費が安い日竜で現地生産した方が、企業にとっても有利だった。
そのため、こぞってイギリス企業は日竜での現地生産にいそしむことになる。
これを突き詰めていくと金融配当と資源輸出の利益で為替がポンド高となって輸出系製造業が死亡し、現地生産拡大によって産業空洞化が待っている。
しかし、当時は誰もそのことに気が付かなかった。
保守派政治家でさえ、イギリス企業の現地生産拡大を後押ししていたほどだった。
彼らは日竜経済の成長で豊かな都市生活者が増えることで、日竜が民主主義に戻ってくることを期待していた。
豊かなモノいう市民こそ、健全な民主主義の基礎だからである。
経済的な豊かさと政治的自由の拡大が必ずしも等線で結ばれていないことが判明するのはだいぶ後になってからのことである。
また、日竜が強烈な反共国家であることも、イギリスの保守政治家にとっては重要だった。
自分たちの代わりに陸軍師団や艦隊を整備してくれる都合のいい番犬がいないと、紳士の子弟が徴兵されて困るからである。
日竜の反共政策は1932年に龍宮内親王が発した
「エイリアンがヨーロッパを徘徊している。共産主義というエイリアンである」
という言葉に全てが集約されている。
所謂、共産党エイリアンである。
帝国議会での演説中に登場したこのフレーズは、その後も繰り返し使用されて、反共国家日竜を決定づけることになった。
日竜は、内政のみならず、外交政策として明確に反共を掲げて、ソ連との全面対決姿勢を打ち出していた。
前述の軍拡も海空戦力よりも予算面では陸軍優先で行われており、1936年までには日竜陸軍は常備36個師団まで拡張され、満州王国には10個師団が展開するほどになっていた。
1940年までにさらに14個師団が新設され、常設50個師団体制になる予定だった。
1936年10月には日英伊三国防共協定を結ばれ、龍宮内親王はロンドンで東京=ローマ枢軸を宣言する。
その意義は、日英伊によるソ連包囲網の構築だった。
日竜は東欧にも外交攻勢を続けており、ポーランドが1937年1月に防共協定に加盟するなど、反共国家同盟の盟主たらんとしていた。
国内においても、共産主義勢力は官憲の手によって徹底的に弾圧され、樺太の強制収容所へと送られた。
吉田茂などの自由主義者が、能力本位の人材活用を図るため黙認されたことに比べると共産主義勢力への容赦ない態度は、却って不自然なほどだった。
というよりも、竜宮人全般が共産主義勢力への拒絶反応を示し、敵意と憎悪を隠そうとしないことに多くの人々が首をかしげた。
開国性交はどこへ消えたのか?と考えたのである。
一般的に考えて、竜宮人ならコミュニスト相手だって股を開きそうなものである。
まさか本当に共産主義者が侵略的外来星人であると思っているのなら、それはもうパラノイアだろう。
「ツングースカ大爆発は実は宇宙船の落下事故で、シベリアに潜伏した宇宙人によってソ連首脳部は支配されているんだ!」
などと言われたら、なんだってー!と言う前に医者を連れてくるべきである。
この種の妄言がなくならないのは、1929年にソ連から追放され、日竜で保護されたレフ・トロツキーの虚言に原因がある。
ソ連のNo2から失脚して国外追放されたトロツキーは、精神的なショックから被害妄想になっていた。
トロツキーは、スターリンの権力獲得には謎の第3勢力の援助があり、その正体は灰色の小人達であると主張した。
スターリンは既に死亡しており、灰色の小人のテクノロジーで操られた人形に過ぎず、ソ連首脳部は灰色の小人のコントロール下にあるという妄想である。
どう考えても、権力の座から追われた哀れな老人の妄言としか言いようがない。
トロツキーからは見て、スターリンは事務処理をやっている地味な男に過ぎなかった。
グルジア出身のスターリンは、ロシア語も上手いとは言えず、共産党員に必須技能であるアジ演説も下手くそだった。
筆者はロシア語が堪能ではないため、スターリンの下手くそなロシア語を日本語訳することが難しい。
しかし、敢えて表現するならば、
「愛とか友情などというものはすぐに壊れまスが、恐怖は長続きしまス」
「死が全てを解決しまス。人間が存在しなければ問題は起こらないでス」
「投票する者に決める力などないでス、投票を集計する者に全てを決める力がありまス」
という感じになるだろうか。
粛清前に国外逃亡に成功した古参の共産党員も一様に、スターリンのイントネーションがおかしい妙な軋音が混じりの下手なロシア語をこき下ろしていた。
「ス」ターリンなどと呼んで嘲弄していたこともあるらしい。
そんなとるに足りない男に、全てを奪われたトロツキーが、妙な妄想に抱いたとしても不思議はない。
しかし、そんなトロツキーであっても、政権を掌握したスターリンの政治手腕をある程度認めていた。
ソ連経済は、世界大恐慌の影響を全く受けず、独自の共産主義経済システムによって大発展を遂げているような見えていたからである。
所謂、計画経済である。
ソ連は五か年計画に次ぐ五か年計画で、重工業化を達成し、遅れたヨーロッパの田舎から、労働者の楽園へと生まれ変わったように見えた。
実際は、ソ連の重工業化はスターリンの恐怖政治による強制労働やウクライナでの過酷な穀物徴発と飢餓輸出による外貨獲得に支えられたものだった。
ウクライナで行われた農村の強制集団化や飢餓輸出では、数百万人が人為的に餓死させられた。
元々ウクライナはロシア革命時に分離独立していた。
しかし、ソ連よって武力併合されたため、コサックを中心に独立運動が続いていた。
スターリンは、ウクライナの独立運動を根絶するためにウクライナ人から食料を奪い、餓死させた上で、ロシア人を入植させてウクライナのロシア化を進めたのである。
また、恐怖政治による強制労働も過酷を極めた。
旧ロシア帝国の貴族やそれに連なる人物、自由主義者などは、政治犯としてシベリアの強制収容所へ送られた。
各地のラーゲリでは、NKVDの監視のもと、囚人による強制労働が行われた。
上述の過酷な実態は情報統制によって殆ど外部には漏れていなかった。
また、ソ連の真実の姿を伝えたようとした亡命者の証言は、真剣に考慮されなかった。
各国のリベラル派や左派言論人といった所謂、進歩的文化人や平和主義団体は亡命者の証言を最初から否定し、嘘つき呼ばわりした。
右派よりも激しく亡命者を攻撃したほどである。
左派はソ連からの亡命者の証言を自説への攻撃だと捉えた。
事実を述べただけで、自説を否定されたと感じるのならば、それは単純に自説が間違っているだけなのだが、人はしばしば事実が間違っていると考える不思議な習性がある。
中立的な人々も、亡命者の証言は、同情を買うためにセンセーションに傾きすぎてると考えた。
亡命者によるとソ連の強制収容所では、NKVDに”処置”された囚人労働者が、文字通りの強制労働を強いられているとされた。
文字通りの強制労働とは、本当に文字通りの意味である。
とある亡命者は、”処理”された囚人労働者が工作機械に下半身を粉砕された状態でインターナショナルを謳いながらハンマーを振い続けていたという恐怖の証言し、そのまま精神病院に収用された。
ソ連の強制収容所を隠し撮りしたとされる写真。真偽は不明である。
さすがに、筆者もこれはセンセーションに走りすぎだと考えるところである。
当時の人々が抱いた感想も似たようなものだった。
しかし、スペイン内戦といった現実の脅威が迫ると人々の意識も変わり始めた。
スペインは、第一次世界大戦後に左右の思想対立や民族自決に煽られた分離独立運動が先鋭化して政情不安が続いていた。
暴力革命路線の左派が政権をとると保守派へのテロルが拡大し、警察機構による暗殺事件が発生するなどスペインは混迷を極めることになる。
左派の暴力に対抗して右派(軍部、カトリック教会、地主層)も結束し、左右の思想対立は街頭での殴り合いやテロ事件を越えて、重火器を用いた内戦へと拡大していくことになった。
左派人民戦線政府に対して反旗を翻したフランシスコ・フランコを中心とした右派反乱軍の戦争は、当初は反乱軍が有利に展開した。
右派反乱軍は、既にファシズム政権が確立していたイタリアやポルトガルから援助を受けることができた。
特にイタリアは反乱軍最大の援助者だった。
イタリア空軍の輸送機は、モロッコで蜂起したフランコ軍をスペイン各地へ空輸した。
さらに義勇軍として4個師団を送り、ファシスト勢力拡大を図った。
日竜も海援隊の傭船契約を結び、輸送船を送ってフランコ軍の移動を助けている。
劣勢に立たされた人民戦線政府は、英仏に支援を求めたが断られ、最終的にソ連に援助を求めることになる。
ソ連の援助は1937年3月ごろから本格化し、7月までには40隻以上の船団がスペインとレーニングラードを往復することになった。
派遣されたソ連義勇軍は10個師団相当にまで拡大し、近代的な戦闘機や爆撃機、戦車や大量の火砲と弾薬が輸送された。
援助船団の運航を監視していたイギリス海軍は、援助船団規模から逆算して、ソ連が本気でスペインを獲りに来ていることを理解した。
しかし、政府の方針が不干渉、中立だったため、何もできなかった。
ソ連義勇軍が戦場に現れると形勢は逆転し、フランコ軍は各地で敗走した。
イタリア空軍の複葉機では、Iー16やSB爆撃機には太刀打ちできなかったし、L3軽戦車で、T-26の大群に立ち向かうのは無謀だった。
何よりもソ連の砲兵火力は絶大であり、殆どの戦闘を砲兵火力で片づける勢いだった。
ソ連歩兵の士気は微妙なところだったが、NKVD旅団は狂信的なスターリニストの集まりだった。
NKVD旅団と交戦したフランコ軍は、恐怖を以てその異常さを証言した。
重機関銃や地雷原で強固に防備された拠点に対して、NKVD旅団は文字通り、地雷原を踏みつぶして殺到したのである。
当然のことながら被害は甚大なものだったが、NKVD旅団は損害を顧みない攻撃を行った。
生還したフランコ軍兵士の証言によるとNKVD兵は、地雷を踏んで足が吹き飛ぶと手で地面を漕いで前進し、手が吹き飛ぶと芋虫のように張って前進してきたとのことである。
また、重火器で頭部を吹き飛ばしてもNKVD兵は殺害することができず、平然と前進を続けたという恐怖の証言もある。
中には火炎放射器で焼かれて黒こげのまま動いていたこともあるという。
まるでブードゥー教のゾンビーのような話であり、いくら何でもスプラッタホラー小説の読みすぎというものであろう。
興奮と恐怖が支配する戦場ではありがちな誤認と錯誤といえる。
ゲルニカ爆撃についても、同様のことが言える。
1937年4月26日、バスク地方の中心都市であるゲルニカが爆撃され、焦土となった。
フランコ軍と人民戦線政府の双方が、この無差別大量破壊について責任を擦り付けあった。
というのも、どちらもゲルニカ爆撃を否定していたからである。
最終的にこの事件は、ゲルニカの防空壕内に隠匿されていたバスク軍の弾薬が自然発火して大爆発を起こしたことで決着がついた。
しかし、当初は双方が爆撃があったと主張していた。
初期の犯人捜しで首謀者として疑われたのはイタリア空軍だった。
しかし、ゲルニカを完全に吹き飛ばすほど大量の爆撃機がイタリア軍にあったら、スペイン内戦はフランコ軍の勝利で終わっていただろう。
なにしろゲルニア爆発の規模は、1キロトン相当だった。
これだけ大量の弾薬が市中に保管されていたというのは如何にも不自然である。
そのため好事家達は陰謀論として、ゲルニカ爆撃の真相は宇宙船の墜落事件であると主張した。
全ての真相を知る海援隊の秘密部隊が何らかの手段で宇宙船を撃墜し、追い詰められたエイリアンが証拠隠滅のために自爆したのである。
もちろん、筆者はそのような陰謀論に組するつもりはなく、エンターテイメントの一種として紙面を割くだけに留めるところである。
1938年3月までにスペイン本国からフランコ軍は駆逐された。
フランコ本人は、イタリア空軍の輸送機でモロッコに敗走した。
以後、スペインはファシスト政権のモロッコ政府とマドリードの人民戦線政府に分裂することになった。
そして、軍が反乱を起こした人民戦線政府は、国防をソ連義勇軍に頼らざるえなくなり、ソ連義勇軍はそのままスペイン各地に駐留することになる。
人民戦線政府から、ソ連にとって好ましくない人物は急速に姿を消した。
軒を貸して母屋をとられたとは、まさにこのことだった。
しかし、西欧や合衆国リベラル派の反応は、概ね人民戦線政府に好意的で、
「デモクラシーが、ファシズムに勝った!」
と喝采を送った。
龍宮内親王に言わせてみれば、
「勝ったのは、コミュニズムだ」
ということになる。
欧州で起きた共産主義勢力による国家の乗っ取りがスペイン内戦なら、アジアにおいては西安事件が相当する。
西安事件以後、日竜と中華民国の関係は急速に険悪化し、遂には武力衝突に至った。




