ぬめぬめして候
ぬめぬめして候
1853年7月、4隻の軍艦が浦賀沖に来航した。
その船は黒塗りの大型船で、帆を張る支柱のほかに船体中央に黒い煙を濛々と吐く筒のようなものがあり、無風であるにもかかわらず海の上を移動できるようだった。
その有様から黒船と呼ばれることになる蒸気機関搭載型外輪推進式船の正体は、アメリカ合衆国海軍の東インド艦隊のフリゲートだった。
艦隊の任務は海禁政策(鎖国)をとる日本に開国を迫ることだった。
艦隊司令長官のマシュー・ペリーは、自分に与えられた艦隊の能力に十分な自信を持っており、いかなる妨害も撥ねのけて任務を遂行する決意だった。
それは武力行使も辞さないというものである。
当時の日本を統べる政権=江戸幕府は17世紀から、2半世紀半に渡って外国勢力との交流を九州の人工島に限定する海禁政策を続けていた。
人口に膾炙した表現を用いるならば、鎖国である。
鎖国によって、日本人が海外に進出することはなくなったが、代わりに外国勢力の侵入を防ぐことができた。
江戸時代250年の平和も、外国との付き合いを限定した鎖国を前提としている。
応仁の乱から100年に渡る内戦に明け暮れた日本列島は、徳川将軍家による平和があり、外国との関わりを断つことで対外戦争を回避したのである。
平和は経済のゆとりを生み出し、元禄文化や化政文化など、今日の日本文化の基礎となる豊かな文化資本を作り出した。
ただし、鎖国は外国事情について全く無関心・無関係を決め込む政策ではないことは、言うまでもないことである。
江戸時代中頃には、漢訳した洋書の輸入が始まっていたし、1774年には輸入したオランダ語の医学書を翻訳した解体新書が出版されている。
幕府は長崎のオランダ商館に貿易独占という特権と引き換えに、海外情報の提供を受けており、アヘン戦争(1840ー42年)の顛末についても詳しい情報を得ていた。
東洋の大国だった清が西洋の軍事力に大敗したアヘン戦争は、幕府首脳部に強い危機感を抱かせ、異国船打ち払い令を廃止して異国船に薪や水の便宜を図る薪水給与令を打ち出すなど、欧米列強への態度を軟化させた。
幕府はオランダから黒船来航前に合衆国の動きを知らされていたほどである。
しかし、対策はまるで不十分だった。
当時の江戸湾には軍艦侵入を拒む沿岸砲台の類は全くなかったため、合衆国艦隊がその気になれば、江戸に直接攻撃をかけることは十分に可能だった。
そのため、ペリーは日本側が国書の受け取りに難色を示すと、艦隊で江戸湾を北上して、兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しすると脅した。
軍事恫喝を受けた幕府は仰天して、とりあえず国書の受け取りは已む得ないとして、ペリーの要求を受け入れ、黒船の速やかな退去を促すことになった。
ペリーが持参したフィルモア大統領の親書(漢訳版とオランダ語版があった)の受け渡しは、神奈川の久里浜で行うことになった。
陸上を幕府直轄軍や川越藩と彦根藩、海上を会津藩と忍藩が警備するなか、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道がペリーと会見した。
この会見は、大統領親書の受け取りに限定したものであり、交渉は行われなかった。
日本側も交渉ではないという姿勢を示すため、緘口令を敷いていた。
しかし、会見中にペリーが椅子から転げ落ちるなど尋常ではない態度をとったため、やむを得ず戸田は緘口令を破ることになった。
ペリーは、
「あれはなんだ?」
という質問に繰り返したため、
「部下の天霧冴可である」
と戸田は答えている。
天霧冴可は、浦賀奉行に務める200石取りの与力(下級武士)で、上役の戸田と共に久里浜へ派遣されていた。
天霧の役務は伝令で、浦賀奉行所と千代田城を往復して指示書や報告書を配送することだった。そのために愛馬の千早号が会見所の外に繋いであった。
伝令は、騎乗が許された与力ならではの役務と言えた。
しかし、ペリー一行が聞きたいことはそういうことではなかった。
彼らが聞きたいことは、
「なぜタコみたいな足が八本も生えているのか?」
ということだった。
それに対して戸田は、
「竜宮人だから」
と答えるしかなかった。
戸田にとって、竜宮人に蛸のような足が八本あるのは常識以前の話だったから、そう答えるしかなかった。
ちなみに竜宮人にとって八足は、外見上は足に見えるが実際には手のような感覚であり、八手と書くのが正しい。
その後もペリーらと浦賀奉行達の嚙み合わない会話が続いた。
ちなみにどちらも相手の言葉が分からないので、やり取りは全て漢文によって行われていたから正確には会話ではなく、筆談である。
最終的にメリケン人は竜宮人を初めて見たのだと戸田が気づき、以下のような説明を行うことになった。
竜宮人は、日本国の遥か彼方にある竜宮島に住む人々の末裔である。
古代に日本の民が海流にのって流れついて土着したことが始まりで、竜宮の民は元を辿れば同じ日本の民である。
竜宮島には平家の落人や豊臣家の落ち武者なども流れ着いており、70年前までは落ち武者狩りを恐れて日本と交流を絶って隠れ住んできた。
日本には浦島太郎というおとぎ話があり、あらすじとしては亀を助けた心優しい青年が水中にある竜宮城という都に招かれて不思議な体験をするというものである。
そのおとぎ話は本当の話で、竜宮城を治める乙姫は実在の人物だった。
乙姫様を始め竜宮人は、おとぎ話のとおり、外見は美しい完璧な女性で、見染めた相手が望むとき、望むままの姿になることができる(変身能力がある)。
ただし、竜宮人は全て半陽(両性具有)であるため、姫であると同時に殿でもある。
竜宮城も存在しており、竜宮人は水底で平和に暮らしていた(海底人である)。
しかし、島の火山が爆発し、竜宮城は壊滅して人が住めなくなった。
やむを得ず故郷を捨てて日本国に助けを求めてきたのが、70年前のことであり、今では日本の民として暮らしている。
ペリーは説明を全てを理解したわけではなかったが、キリスト教的な価値観からすると神への冒涜か、異界神の襲来としか思えない悪夢が日本では普遍的な存在であることは理解した。
大統領の親書を渡したペリーは、回答期限を1年後に設定すると、任務を完了したとして即日、全艦を率いて浦賀沖を離脱し、帰国の途についた。
脱兎のごとく逃げ出したと言えなくもなかった。
ペリーは竜宮人が船にへばりついていないか、何度も船底を確認させたという。
幕閣は黒船が速やかに退去したことに安堵したが、その理由については想像の埒外だった。
浦賀奉行からの報告で、メリケン人が竜宮人を酷く気味悪く見ていたことは知っていたが、キリスト教的な価値観を全く理解していないため、ペリーの味わった生理的な恐怖感を共有することができなかった。
旧約聖書には、『およそ水中の生物のうちで、ひれやうろこのないものは、その肉を食べてはならない』という記述があり、欧米ではタコは魔性の生物として忌避されていた。
船を水底に引きずり込むクラーケンや、ギリシャ神話に出てくるスキュラといった怪物もタコをモチーフにしている。
20世紀初頭にも、タコをモチーフにした怪奇・幻想小説が出版され、コズミックホラーの傑作として評価されるほどだった。
地中海沿岸を除けばタコを食用にすることはなく、ゲルマン民族は殆ど食用にすることはない。島国のイングランドでさえ、食料の枠組みには入っていない。
生のまま食したり、春画に使う日本人の方が世界的に見れば珍しい部類に入るだろう。
ともかく、1年の猶予を得た幕府は、急ぎ軍事力の整備を始めた。
まず、江戸湾に台場(沿岸砲台)の建設を開始すると共に、海軍建設に着手した。
幕府自ら洋式帆船(鳳凰丸)を建造し、さらに大船建造の禁も解除して、各藩に軍艦の建造を奨励した。
日本では建造不可能な蒸気機関搭載船もオランダに発注された。
幕府が沿岸防備や海軍力建設を急いだのは、合衆国艦隊が浦賀水道を封鎖することを恐れたためである。
浦賀水道の封鎖が幕府にとって致命的なのは、江戸市民100万人の食料輸送を海上輸送に頼っていることを鑑みれば自然と理解できるだろう。
江戸の町は、近世的都市システムの極限まで発展した大都市で、19世紀末時点で人口は100万人に達していた。
彼らが食べる食料を運ぶのは、専ら和式帆船(弁才船)であり、その積載量は1000石(150t)だった。
天空から当時の日本周囲の海を俯瞰したら、日本全国の米どころから延々と小さな帆船が江戸に向かって列を並べていたことを確認できるだろう。
その海上輸送が収斂するチョークポイントが浦賀水道であり、その封鎖は江戸市民100万人を人質にとった兵糧攻めだった。
食料の備蓄は乏しく、浦賀水道が封鎖された場合、1月程度で食料暴動が発生して国家体制(幕府)の崩壊が始まると予想された。
通商破壊戦という概念がなくとも、幕府は概ね正しく合衆国海軍の持つ軍事的脅威を認識しており、海軍建設はその認識の現れだと言えた。
ただし、幕府(軍事政権)と言えども、対応策は武力一辺倒というわけではなく、交渉を通じた解決も模索しており、日本国内の数少ない英語話者(ジョン万次郎)を招聘し、英語教育を始めている。
さらに老中首座の阿部正弘は朝廷を始め、諸大名や市井からも意見を募った。
黒船来航に対する幕府の軍事的無力や市井にまで意見を広く募るという幕府の態度は、松平慶永(福井藩)や島津斉彬(薩摩藩)の意見により、徳川斉昭を海防掛参与に任命したことなどが諸大名の幕政への介入の原因となり、幕府の権威を弱める一方で雄藩の発言力の強化及び朝廷権威の強化につながった。
しかし、広く意見を募集するという阿部の態度は、公議輿論として大政奉還や後の帝国憲法や帝国議会創設につながる最初の一歩という評価もある。
幕府から意見を求められた市井の人々やこれまで国政を幕府に任せきりにしてきた大名達は、突然の意見募集に戸惑いながらも自分自身の考えと言葉を口にするようになった。
それは主体的に自分の所属する小さな共同体(家、村、町、藩)を超えた範囲(つまり日本という国家全体)の運命に思いをめぐらす行為である。
江戸時代という近世封建制度において、国家の最大単位はその人が住む小さな領国の内側にしかなかった。
領国が違えば、同じ言葉を話していても外国人であり、藩という地方政府をまたいで自由に住む場所を変えることもできなかった。
現代でも全ての人が外国に自由に移住できるわけではないのと同じことである。
実際には貨幣経済や工場制手工業の発展、人口増大によって都市部への流民は増え続けており、それに伴って封建制度は変容しつづけていたが、国家のグランドデザインの根本的な変革を迫るものではなかった。
しかし、黒船来航は否応なしに多くの人々に、日本という国家全体のあり方を考えさせる契機となった。
喧々諤々の議論の中から、新しい国家のあり方が次々と生まれることになる。
しかし、短期的には来年やってくるペリーにどう対応するのかが重要だった。
市井には強硬な攘夷論をぶち上げる者は多かったが具体的な手段には乏しかった。
最初は攘夷論を叫んでも、文章の末尾になると「しかしながら、諸般の事情を鑑みて開国もやむなし」という本音と建前がわかりやすく分離していた投書も多かった。
困り果てた幕府は、竜宮人がメリケン人に何かしら効果があると思われたので、竜宮藩(伊豆賀茂郡1万石)はメリケン対策を講じるように命じた。
当時としてもかなり無茶な命令を受けた藩主の竜御前は、
「沿岸に陽電子砲を配備したらどうか」
と献策したが、当時の技術では不可能だった。
竜御前は、当時としても立志伝中の人物で、日本史への初出は1790年である。
それ以前については定かなことは分かっていない。
本人の昔がたりによれば、水底にひろがる海の都(竜宮城)で暮らす王族の一人だったとわれてる。
火山爆発で竜宮城が滅びると竜御前は僅かな生き残りと共に日本へ亡命を図った。
当時は、火山活動が活発な時期であり、アイスランドのラキ火山やグリムスヴォトン火山が大噴火を起こし、日本でも浅間山が噴火している。
これらの降灰によって、北半球全域が寒冷化して小氷河期を迎え、ヨーロッパではブルボン王朝が打倒したフランス革命が勃発し、日本では天明の大飢饉が発生した。
おそらく竜宮城を滅ぼしたのも海底火山の爆発だと考えられる。
深宇宙から銀色の円盤に乗って飛来したという説もあるが、ここでは取り上げない。
全てを失って命からがら日本に逃げ延びた竜御前は、過酷な旅の疲れからか非常に醜い姿をしていたとされる。
そのため、当初は化け物と間違えられ、伊豆の漁師達に捕縛されてしまった。
漁獲されたという説もあるが、ここ竜御前の言い分通りに話を進めることとする。
命からがら市場から逃げ出した竜御前だったが、行く先々で気味悪がられ、石を投げられたり、犬に吠えられたりした。
食べるものもなく、ドブの中で死を待つばかりになった竜御前は、偶然通りかかった新さんに救助され、一命をとりとめることになった。
新さんとは、徳田新之助氏のことで、竜御前が見染めた日本人男性のことである。
なお、本名は伏せられており、徳田氏は仮名である。
本名が伏せられている理由は分からない。
一説によると子だくさんだった徳川家斉公のご落胤という説があるが、俗説の域を出るものではない。
徳田氏を見染めた竜御前は、徳田氏から愛されたいと願うようになった。
しかし、竜御前はとても醜い姿をしていたので、非常に苦労した。
竜宮人の体は非常に柔軟な構造になっており、自由に外見を変えることができたので、竜御前は徳田氏に愛される外見を探して試行錯誤を繰り返した。
近所でかわいがられていた猫の姿を真似してみたが、徳田氏の反応は今一つだったと竜御前は振り返っている。
最終的にたどりついた結論としては、徳田氏が密かに楽しんでいた春画や艶本を真似ることだった。
竜御前は美女が大蛸に犯される春画を見た瞬間、
「これだ!」
と閃いたそうである。
ちなみに効果は絶大で、昔語りではここから延々と徳田氏と竜御前の下世話話が続くことになるので、その部分は割愛する。
人から愛される容姿を手に入れた竜御前は、人前に出ることを恐れなくなり、生き残りの竜宮人を集めて、竜宮歌舞伎を主宰するようになった。
竜宮歌舞伎とは、美しい容姿の竜宮人が鯛や鮃のような舞い踊りを男衆に見せて見物料を得る興行である。
踊りの進行に併せて着衣の量が減っていくという特徴がある。
また、艶本茶屋を開いて好評を博した。
艶本茶屋とは、お気に入りの艶本にあわせた容姿の竜宮人が、個室で艶本を読み聞かせ(実演を伴う)を行うというものである。
当時の日本は、老中・松平定信が進めた寛政の改革期にあたり、非常に厳しい倹約令や文化統制が行われていた時期だった。
そのため、息苦しさに耐えかねた人々は竜宮歌舞伎や艶本茶屋に癒しを求めて集まった。
竜宮歌舞伎も取り締まり対象だったが、竜宮人は人なのか妖なのか判別がつかなかったため、祟りを恐れて役人は見て見ぬふりをしていた。
また、世論は流浪の民に身をおとした竜宮人に同情的で、海の向こうにあったおとぎ話の国を襲った悲劇に涙したので、下手に弾圧するわけにもいかなかった。
おとぎ話としての浦島太郎は、御伽文庫として江戸時代に多数の版が作られており、寺子屋の教材として使用されていたことから、竜宮の悲劇は身に迫るものがあった。
そのため、続々と上陸してきた竜宮人に対する感情は極めて同情的だった。
もちろん外見がどうしても受け入れられない人々もいた。
しかし、時間経過と共にそれは少数派になっていった。
特に江戸では竜宮人は早期に受け入れられた。
当時の江戸の人口構成が極めていびつな構造だったためである。
江戸の男女比は概ね8対2だった。
なぜこのような極端な割合になっていたかといえば、江戸が将軍のお膝元だったからである。
参勤交代で日本全国から大名やその家臣が江戸に集められたことから、江戸は武士の町として男くさいまま発展した。
結果として、江戸に暮らす男たちは独り身のものが多く、女性経験がないまま婚期を逃してそのままやもめ暮らしをしている者が多かった。
世継ぎを残すことが期待される長男はともかくとして、次男や三男、四男、五男となれば、独身のまま捨扶持を与えられ、実家の一間で一生を終えることなどザラにあった。
そこに見目麗しい竜宮人が上陸してきたら、免疫のない男衆はいちころだった。
例え足がタコ八丁だったとしても、春画に出てくるような美少女達が艶本の展開そのままに言い寄ってきて堕ちないのはよほどの堅物か、枯れているか、諧謔主義があるものだけだった。
しかし、
「それはそれで」
と竜宮人は受け入れて、べたべたと引っ付いてきて最後にはモノにしてしまうのだった。
相手に応じて好みの外見を得られる竜宮人は、年下だろうが、年上だろうが、妹だろうが、姉だろうが、猫の耳だろうが、鳥の羽だろうが、お手のものであった。
パートナーの性癖を隠すために、敢えて地味な外見をしている場合も多い。
ちなみに人目がつくところでは地味な外見をしている方が、床の間では滅茶苦茶というのが竜宮人の通例である。
最近でも、とある有力政治家が地味な見た目の竜宮人秘書と高級ホテルで密会しているとことをスッパ抜かれたが、竜宮人秘書は煽情的なドラゴンのような姿で、有力政治家を車に見立ててブオンブオンしているところを激写されている。
また、地味な見た目であっても、三つ編みだったり、眼鏡だったり、前髪で目隠れしている場合はそういう趣味として静かに見守るのがマナーとなっている。
なぜ竜宮人が頭の悪い艶本のような人付き合いを常套するのかは分かっていない。
まるで地球に降り立った最初の竜宮人が、「これだ!」と己の種族全体の模倣子に刻み込んでしまったかのように思えてきてしまうが、そのようなことはあるはずがないので文化の違いということでご理解いただくしかない。
きっと竜宮城では、そうしたコミュニケーションが一般的だったのだろう。
そう考えると御伽草子の浦島太郎も途端に艶めかしい印象に変わってしまうので、江戸時代に浦島太郎を底本にした艶本が多数、作られることになった。
当時の男性諸氏は浦島太郎が竜宮城から帰ると枯れた老人になってしまった理由をなんなく理解したという。
男を取られた女たちは嫉妬に狂ったりもしたが、竜宮人は両性具有でどちらもいける口だったので、そのうち沈静化した。
誰にだって理想の王子様の一人や二人はいるものである。
体当たり(裸体)のコミュニケーションで、江戸時代の日本に食い込んでいった竜宮人だったが、天明の大飢饉の直後ということで人口回復が急務という幸運にも恵まれた。
天明の大飢饉は、世界規模の地球寒冷化による食料生産の減少で、東北地方を中心に140万人が餓死するという大惨事となった。
幕府としては、荒廃した農村の再建が急務であり、旧里帰農令を発令していた。
旧里帰農令とは、江戸に流れてきた農民たちに元の村々へ帰ることを勧め、そのための旅費・食費を幕府が交付するというものである。
全滅した村に、流浪の民となった竜宮人を押し込んで復興させるというのは、それなりに見込みのありそうな政策だった。
人口回復のために竜宮人がやたら閨狂いということも好都合だった。
竜宮人が入植した村では、竜宮米の栽培が奨励された。
竜宮米とは、竜宮城で栽培されていた米で、冷害や病虫害に強く、しかも食味が良くて多収量という非常に優れた品種だった。
その価値は1国に匹敵するとさえ謡われる画期的なものだった。
竜宮人は基本的に非力で農作業には苦労したが、竜宮城で一般的だった人工授精法を用いることで家畜を効率的に増やして、畜力を利用することもできた。
寒冷地や山間部で牧畜を始めたのも竜宮人である。
骨格がなく、全身筋肉の竜宮人はタンパク質の摂取が健康維持のために欠かせないため、竜宮人は肉食文化を日本に持ち込んだ。
稀に人間の男性由来のタンパク質だけで十分という偏食家もいるが、全体としては少数派だった。
日本の馬が蹄鉄をつけるようになるのも、竜宮人の入植以後のことである。
奥羽が日本の農業地帯として栄えるようになったのは、竜宮以後という評価さえある。
さらに、日本が清との貿易で重視するようになっていた俵物の生産にも竜宮人は貢献した。
俵物として、海鼠(いりなまこ/いりこ)・乾鮑(干鮑)・鱶鰭の海産物(乾物)の3品は、中華料理での需要が大きかった。
水中で呼吸できる竜宮人は、漁労においてはまさに無敵の存在だった。
延々と素潜りで漁労を行える竜宮人は、採集だけではなく、竜宮で一般化されていた養殖技術を日本に伝え、鮑の稚貝栽培や真珠生産などに従事した。
日本で真珠養殖が始まるまで、宝飾品としての真珠は天然採取に依存しており、非常に貴重なものだったから、真珠養殖の専売は莫大な利益を生み出した。
さらに相当な額の財産が、幕府に献金されたことが分かっている。
詳細は不明ながら、数百万両の竜宮財産が、壊滅した竜宮城から運び出され、幕府に献上されたと言われている。
厳格な倹約令や尊号一件など将軍家斉と対立していた松平定信が失脚したのも、竜宮財産で幕府の財政再建が完了して用済みとみなされたからという説がある。
定信は竜宮人に批判的だったことから、失脚は竜宮人にとって好都合だった。
さらに将軍家斉が非常に好色な人物だったことも追い風だった。
家斉は、生涯において男子26人・女子27人を儲けた絶倫の持ち主で、精力増強のためにオットセイの陰茎を粉末したものを飲用していたので「オットセイ将軍」とも「俗物将軍」とも呼ばれていた。
竜御前は家斉に接近し、結納金として竜宮財産を献金し、実子(お竜の方)を家斉の側室に押し込むことに成功している。
将軍家と縁戚になった竜御前には化粧料として天領から伊豆賀茂郡1万石が下賜され、大名の列に並ぶことになった。
竜宮藩の立藩は1800年のことである。
江戸時代に、本当に裸一貫から裸を駆使して大名に上り詰めた例は、後にも先にも竜御前しか例がなく、異色の立志伝中の人と言える。
黒船来航時に竜御前は相当な高齢だったにもかかわらず赫灼としたもので、幕府の命で前述の案以外にも様々なメリケン対策を建議することになる。
黒船来航こそ竜宮人勢力を日本政界の中心に追い上げたと言えるだろう。
竜宮人は代表者の竜御前を含めて、基本的に開国派だった。
大抵の竜宮人は黒船来航について悪い印象はなく、
「向こうから言い寄ってきた以上は、合意とみなす」
と考えていた。
然らば、即ち性交であり、四方の国々に股を開き、性交を通じて好を図ることが竜宮人にとっては当然の理だった。
もちろん、性交の後で言い寄ったのではなく、道を尋ねただけだった(誤解)であることが判明することもしばしばあるが、それは誤性交というものである。
薩摩人の誤チェストと比べればご褒美のようなものなので、大らかな心で許して、奉行所に通報するのは止めてほしいと竜宮人は考えていた。
性犯罪になってしまうからだ。
千代田城に召しだされ、上様の御前で開国性交の道を説いた竜御前は、
「少し性交を控えよ」
と第13代将軍家定に窘められたが、その主張は幕府の基本方針に沿うものだった。
情報収集によって攘夷の不可能性に気づいていた幕府中枢としても、推定200万人まで増えた竜宮人の代表者が、開国派であることは国内政治において大きな安心材料だった。
竜宮藩が僅か一万石の小藩であるにもかかわらず、幕末に存在感を発揮したのは竜宮人という一つの集団だったことが大きい言える。
それこそ下手な大大名よりも、竜宮人の紐帯は強大だった。
鎖国攘夷派の最右翼だった親藩水戸家と互角にやり合うことができたのは、国内に張り巡らされた竜宮人の紐帯があればこそだった。
ちなみに竜宮人は見た目が年齢に比例(パートナーのためにわざと加齢しているように見せる場合がある)しないが、加齢で筋肉量が減ると背丈が小さくなる傾向がある。
そのため、高齢の竜宮人が若作りをすると漏れなく幼女のように見える。
所謂、幼形老女である。
竜御前は、開国派の主要な人物として、鎖国・攘夷派の中心となった徳川斉昭と喧々囂々の大論争となったが、烈公としても幼女を怒鳴るわけにもいかず、しかも相手が年上だったことから非常にやり難い相手となった。
やり難いのは見た目が幼いからではなく、斉昭の筆おろしを竜御前が務めたからという噂もあったが俗説の域をでるものではない。
幕府は概ね開国の方針で纏まり、沿岸防備も急ぎ整えられ、江戸湾防備の要として品川台場が造られた。
さすがに陽電子砲はなく、間に合ったのは青銅製の大砲だけだったが、台場には水中出入口が用意され、爆雷を抱いた竜宮人が密かに発進できるように工夫されていた。
水上艦が水中からの攻撃に弱いのは自明のことであり、いざというときは爆雷を抱いた竜宮人が自爆攻撃を行う手はずとなっていた。
水中攻撃は、水の中でも呼吸ができる竜宮人ならではの戦法と言える。
嫋やかな竜宮人から非情な自爆攻撃を想像するのは難しい。
しかし、
「和合を以て貴しとなす」
という竜宮人の基本思想は、決して情弱なものではなく、不合意の性交を断固として拒否する思想である。
そのためには実力行使も許容されるし、それが果たされないのならば自害するという非常に険しい面もある。
もちろん、竜宮人に性犯罪者が全くいないというわけではなかった(むしろ多い)が、相手との対等な関係こそ和合への常道とされた。
それは国と国との関係も同様であり、メリケン国と対等な関係を築くことを望むが、相手が一方的に日本を蹂躙しようと企むのならば、必死必勝の攘夷も止む無しだった。
攘夷派の斉昭が開国を黙認する態度をとったのも、竜御前が用意した必死必勝の自爆攻撃に気圧されたという面が大きかった。
万全というには足りない物もの方が多かったが、幕府は黒船の再来航のために成しえるだけの用意を整えた。
しかし、来航期限を過ぎても何の音沙汰もなかったので、首を傾げることになった。
幕臣達は巌流島の決闘を引き合いに出して、日本を焦らすための心理作戦であると世論の引き締めを図ったが、3カ月待っても黒船は来なかった。
流石に何かこれはおかしいと考えたが、日本からメリケン国へ連絡をとる手段がなく、無常にも時間だけが過ぎていった。
アメリカ合衆国の対応が遅れた理由は、専ら竜宮人にあった。
太平洋を往復しての大統領親書手交という大任を果たしたペリー提督は、復路において神経症を発症して、療養を余儀なくされた。
アメリカ人初の急性竜宮超現実症候群である。
RRSとは、ペガサスやドラゴンといった幻獣や神話の神々といった現実に存在しないものと出くわす事で価値観や常識といった一種のアイデンティティが崩壊する事による精神錯乱である。
ペリーほど深刻な症状を発症しなかった者も、本国に真実を伝えるべきか、思い悩んだ。
ありのままに真実を述べることは躊躇われた。
よほど能天気な人間でもなければ、ありのままに起きたことを話してしまうと何を言っているのか分からなくなり、精神病だとか、催眠術とか、そういうチャチなものでは断じてない、もっと恐ろしいことになることが容易に想像できるからである。
実際に、真実をありのままに話してしまったジュラル・チャージマン大尉はRRSとなり、精神病院に収容された。
チャージマン大尉の証言は、地元のゴシップ紙に拾われて、
「ジュラル星人の地球侵略!」
などと面白おかしく脚色されて報道されたので、ペリー等の苦悩はさらに深まった。
精神病院に収監されたチャージマン大尉は、こんなところに自分を閉じ込めた祖国に絶望して自殺した。
チャージマン大尉は非常に強い正義感の持ち主で、祖国に真実を伝え、未知の脅威に対抗していく必要性を説こうとした故に起きた悲劇だった。
竜宮人を目の当たりにした他の将兵も同様の考えだったが、どのようにして真実を明かすべきか思い悩んでいた。
彼らは非常に婉曲な形で、自分たちが見たものを伝えたので、噂話は尾ひれがついて広まり、少しずつ制御不能になっていった。
最終的に合衆国連邦議会は、合衆国東インド洋艦隊が日本で目撃した「巨大不明生物」について、かろうじて会話できる程度に回復したペリーを招いて公聴会を開くことになった。
巨大不明生物の素描は、頭足類に似た六眼の頭部から顎髭のように触腕を無数に生やし、巨大な鉤爪のある手足、ぬめぬめとした鱗か醜い瘤に覆われた数百メートルもある山のように大きな緑色の巨人で、背にはドラゴンのようなコウモリに似た細い翼を持った姿ということになっていた。
人間が見ただけで発狂する設定や、口から滅びの言葉を放つという設定もあった。
民主主義国家の軍人として、公聴会で偽証をするわけにはいかなかったペリーは、自分の見たものをできるだけ冷静に、客観的に伝える努力をした。
その努力は殆ど失敗して、一大センセーションを巻き起こしてしまった。
合衆国世論は、東洋の極てに未知の生命体が生息しており、今にも太平洋を渡って西海岸に上陸してくると本気で心配して、集団RRSとなった。
強硬右派は、東インド洋艦隊は即座に全力で海底人を攻撃すべきだったと主張した。
それほど強硬でなくとも、モンロー宣言に違反してアジアへ手を伸ばしたことを後悔するアメリカ人は多かった。
ペリーがたどり着いたのは、日本ではなく伝説のムー大陸か、さまよえるアトランティスだったのではないかという説が大真面目に議論された。
情報は、大英帝国にも回送された。
大体のイギリス人はアメリカン・ジョークが理解できなかったので無視した。
他の欧州列強国の反応も似たようなものだった。
日本と唯一正式な通商関係のあったオランダも、竜宮人については何も知らなかった。
竜宮人は、天明の大飢饉で人口減少が著しかった東北に入植しており、西日本・九州では稀だったことから、オランダ人が知らなかったのも不思議なことではなかった。
一応、浮世絵などで竜宮人が描写されることもあったが、それは日本流の冗談や洒落という理解だった。
むしろ気味の悪い下半身に猫耳などの動物を組み合わせたシュールな表現として、ヨーロッパの芸術家たちから発想の自由・奔放さの現れとして評価が高かった。
ロシア帝国は松前沖で操業する自国の漁民から、下半身が蛸の海底人について報告を受けていた。
しかし、寒い海で活動する漁師は体を温めるためにウォッカを飲みすぎており、酔っ払いの戯言だとしてまともに相手にしていなかった。
実は合衆国も、日本近海で操業する捕鯨船が、何度か竜宮人に遭遇していたが、迷信深い船乗り達の見間違いだと考えていた。
歴史上の記録では、ジョン万次郎が竜宮人を初めてアメリカ人に紹介したことになっているが、当時の反応としてはジャパニッシュ・ジョークという扱いだった。
万次郎も、頭がおかしくなったと思われるのが嫌だったので、あまり真剣に説明をしなかったと言われている。
しかし、ここに至っては合衆国も真剣にならざるをえなかった。
合衆国海軍関係者や国務省も事前の情報収集が不足していたことを認めた。
その上で、日本を開国させるべきかどうか激論が交わされた。
問題なのは、日本を開国させた場合、必然的に合衆国におぞましき者が合法的に入国可能になるということだった。
国と国の国交を開くということは、双務的なものだからだ。
相手がアメリカに領事館を開くことを求め、領事におぞましき者を指定してきたとしても、それを断るのは困難だった。
通商関係を築けば、さらに多くの民間人が合衆国に上陸することになる。
おぞましき者が、ニューヨークやボストンを闊歩する姿などは想像するだけで、殆どのアメリカ人には怖気が走る思いだった。
日本人と共存しているところを見ると案外平和的な連中かもしれなかったが、日本人が異常者の集まりだという可能性も否定できなかった。
おぞましき者と日本人が性交して、子どもを作ってるという情報が齎されると日本人全てが人間のふりをしている異常存在ではないかと真剣に議論された。
そんなところに捕鯨港や対清貿易の中継地点を設けたところで、合衆国市民の安全が守られるとは思えなかった。
捕鯨と対清貿易。
基本的に19世紀半ばまでの合衆国対日外交は、その2点に立脚していた。
19世紀に世界規模で進んだ産業革命は、機械油や灯油として鯨油需要を激増させ、太平洋や大西洋でクジラが狩りつくされることになった。
蒸気機関をなめらかに駆動させる潤滑油としてはマッコウクジラが、灯油としてはシロナガスクジラやミンククジラがよく利用された。
鯨油は、クジラの脂身を船上で煮詰めることで生産されるが、そのためには大量の薪や真水が必要だった。
薪や真水の供給できる場所や、太平洋に残された数少ない捕鯨の良漁場として日本列島とその近海には大きな経済的な価値があった。
19世紀末の日本が開国に向かうのは、産業革命とクジラの所為と言えなくもなかった。
さらにアメリカ西海岸から清へ航海した場合、最短経路となる大圏航路(西海岸から北上し、アリューシャン列島・千島列島沿いに南下、津軽海峡と対馬海峡を通過して上海付近に至る)を利用すると、その途中で松前沖を航行するため、中継港としては最適だった。
日本を開国させるのは、捕鯨基地や清に向かう中継拠点の確保という意味合いであり、合衆国の極東政策における位置づけとして日本は下位の存在だった。
しかし、その下位の存在が想定外の存在だったため、合衆国の対アジア外交は根底から見直しを迫られることになった。
当時の合衆国は、黒人奴隷問題で異人種にはナーバスになっていた時期であり、黒人よりもさらに人間の枠組みから外れた知的生命体を国内に入れるなど、とても看過できることではなかった。
しかも、入手できた僅かな情報から、おぞましき者がやたら繁殖力が強く、常時、発情しているような生態であることが判明したら猶更だった。
常時、発情しているのは人間も似たようなものだったが、それは無視された。
ミラード・フィルモア大統領は、開国を求める親書を送ってしまったことを真剣に後悔し、議会(民主党)からは歴史的な外交失策として集中砲火を浴びた。
フィルモア大統領の選出を最後にホイッグ党は急速に衰退していき、合衆国政治は共和党と民主党の2大政党制の時代を迎えることになるが、フィルモア大統領の外交失策(対日開国要求)がホイッグ党の衰退原因という説もある。
ともあれ、既に出してしまった大統領親書をなかったことにすることはできず、しかし、絶対におぞましき者がこちらに来てほしくないという矛盾を抱えた合衆国は、煩悶した末に回答確認をオランダに丸投げするという暴挙に出た。
現時点で日本と正式な通商関係をもつのがオランダなので、オランダを間に通して連絡をとるのは手続きとして正しいという理由だった。
前回のように軍艦で直接乗り付けて回答を確認するのは、防疫など様々な理由をつけて否定された。
日本が開国を拒否してくれたのなら、全てなかったことにしてもいいとさえ考えていたフィルモア大統領は、オランダ経由で届いた開国受諾という回答に頭を抱えることになった。