トコロテン湖
男は入水自殺を考え、付き合っていた女性と共に旅をし、路銀が尽きると死を二人で遂げようと湖までやって来て、湖のそばの岸で靴をそろえて置き、その下に遺書を敷いた。二人はつくづく不幸な人生だった。二人そろって幼いころに親に捨てられ施設で育ち、まともな職にもつけず、バイト暮らしが十年続いた。二人は限界だった。お互いを支え合う、一種の支柱のように考え、両者が必死に助け合った。
だがもう限界だった。何の成果も得られない人生、貧しい暮らし、周囲からの嘲笑の視線。二人はどちらからとなく心中を遂げようと言い合った。生きていることに意味はなく、ただ、惰性で、嫌味ったらしい上司に面罵され、同僚には揶揄される生活。
何が面白くて生きているのか意味がわからなかった。
二人は手をつなぎあい、死ぬときは一緒だと誓い合った。湖にそろそろと歩み寄りつるんとした触感が二人の素足にすり寄った。
「なんだろう」
「これは水じゃないわ」
「ああ、これはトコロテンだ」
「そんなことがあっていいの?」
死を覚悟した二人の逃避行はここで終焉を迎えるはずだった。しかし、いくら頑張ったところでトコロテンが密集して出来た湖で溺死できるはずがない。しるっけも全くないのだ。トコロテンの大きさはさまざまで太かったり細かったりした。
男の方が意を決して、ウナギのようにツルンツルンのトコロテンを掴み持ち上げてみる。途中で、ぷつんと切れはしたが、残ったのをほおばる。彼の思考は施設暮らしの頃にジャンプした。トコロテンを奪い合う子供たち。少しでも腹を多く満たそうと力のあるものが無言のプレッシャーをかけて椀ごと奪い取っていく。弱肉強食だった。結局、男はトコロテンの味を知らぬままここまで来てしまった。女もまた同じ。
「美味い!」
男はこれほど美味いものだとは知らなかったと言わんばかりに目を輝かせて、女にも続くように合図を送った。衛生面を気にする女性だが、死を覚悟したくらいだ、腹痛など怖くわない。
「あら、まあ」
この街の不幸という不幸を集めたような女の顔に朱がさした。一種の生命力とでも言おうか。二人は夢中になってトコロテンを食べ始めた。甘辛く、すりショウガと辛子の味がないまぜになってフレーバーに影響を与えた。そういう成分も含まれていたのだ。
二人は満腹になるとトコロテンの湖のなかで腰掛け、トコロテン風呂だとはしゃぎ始めた。トコロテンは二人を温めるように彼らに巻き付き、蛇か何か生き物を想起させた。トコロテンの温度が上がる。二人は夢心地でトコロテンに肩まで使った。
「いい気分だ」
「そうね、こんなにトコロテンが気持ちいいなんて知らなかった」
腹が張り、体が温まった二人は睡魔に瞬く間に襲われ、目を閉じた。やわらかい弾力性のあるベッドと羽毛布団に包まれたような感覚。うとうとしても仕方ない。二人は手を握りあう。永久の愛を誓い合ったもの特有のものがあった。
二人はそこで一週間生活した。トコロテンの味に飽きてきたころ、二人はまた死を覚悟した。そばにもう複数の湖があることを思い出したからだ。
「今度こそ、僕たちは死ぬ」
「ええ、そうなるわ」
「僕は、君と出会えて本当に良かった」
「ええ、最後にいい思い出も出来たことだし」
二人が向かう先にはつゆ無しのざるうどん湖(麺のコシが素晴らしかった)、タレ無しの次に冷やし中華湖(レモンの甘酸っぱさは流石)、つゆ無しのざるそば湖(そば特有の触感が最高)と続く。
「私たちはなぜ死ねないのかしら」
「僕たちに生きろと言っているんだ」
「そうだわ、その通りだわ」
二人が次に向かった先にあったのはぶくぶく泡沫が上がる油湖。バチバチと油が爆ぜている。二人は顔を見合わせた。そして、二人は回れ右をして、お互いの手をしっかり握り合い生き抜くために油湖を無視して疾走していった。
二人の表情には迷いはなく、生きようという強い意志が感じられた。
奇跡の体験をした二人はそれからも襲い来る数多の困難にめげることなく、生き延びて、結婚し、子を授かり、孫が出来た。
孫は身を乗り出して聞く。
「おじいちゃんとおばあちゃんはどうやって生き抜いたの? お母さんがすごく大変な人生だったって言ってたから。何か、きっかけとかあったの?」
男と女は歳を重ねた。今では老人だった。年老いて腰が曲がった二人は、お互いの顔を見合わせぷっと噴いた後、孫とソファに腰掛け向き合った状態で、ニコニコと微笑み、そのきっかけを孫に語り始める。
孫が絶対に信じない摩訶不思議な話を……。
「きっかけかい? そうだねえ。おじいちゃんとおばあちゃんはね、実は……」
二人の話を聞き終わったなら孫がぷんすか怒り、「そんなことありえないよ」と発言するだろうことがおじいちゃんとおばあちゃんには手に取るように分かるのだった。
了