インキュナブラ世界
「あっははは! それで部屋に入ったと思ったら僕に泣きついてきたのか! あっははははは!」
「笑いごとじゃね〜〜…ス!」
腹を抱えて大笑いする灰色の縞猫キャルレを、賢吾はジト目で睨みつけた。幸いにも尿瓶の出番はなかったが、これからも使うつもりはまったくない。
「ははは。まぁ、そういうのはちゃんと他の誰かにお願いするから心配しなくていいよ。さて、傷の予後も悪くなさそうだ。今日は時間に余裕があるし、君たちの質問に答えようじゃないか」
晶から温かいティーカップを受け取りながらキャルレが言った。
「いいのか? あー、晶…は怪我を治すのが先って、その……」
「構わないよ。今日はそのために来たんだからね。ああ、地図も持ってきたよ。見たいかと思ってね」
「お、助かる!」
「賢吾さん、はしゃぎすぎないでくださいね!」
大きな声を上げた賢吾にすかさず晶が釘を刺す。一度目覚めたものの、賢吾はあの後またしても深い眠りについてしまい、晶を泣かせてしまった。
「ケンゴは死にかけたのに元気だなぁ」
「まぁ、死にかけたのはこれが初めてじゃないからな」
「まったく本当に……。無茶ばかりするひとですね」
「いや、君にだけは言われたくないんだけどなぁ……」
同じくティーカップを受け取りながら賢吾はぼやいた。今回、転移してきてすぐに山の中にいた盗賊相手に蹴りをかましたのは晶からだったし、望まぬとはいえその後も身体を張って戦っていたし。
キャルレは笑ってパウンドケーキを頬張り、お茶で口を湿して切り出した。
「じゃあ、まず、何から話そうか」
「そうだなぁ。地図、見せてもらってもいいか? それから、この世界の名前をちゃんと教えてくれ」
「わかった。ではこの地図を見てくれ。これが大陸と島々の全図だ」
キャルレはそう言って、手に持っていた筒から地図を取り出した。そして晶に手伝ってもらいながら、賢吾の座るベッドの上に世界地図を広げる。
「ご覧、これがこの世界で一番大きな大陸であるこのインキュナブラだ。今我々がいる場所はその東端の北部に当たる。この世界に名はないが、あえて呼称するなら「インキュナブラ」世界と言えるのじゃないかな」
「へぇ」
賢吾は持ってきた地図をじっくり眺めた。まず目に入るのは唯一にして一番大きな大陸だ。これがキャルレの言う「インキュナブラ」だろう。
印象としては地球の南極大陸とオーストラリア大陸を除いた、ユーラシア大陸・アフリカ大陸・南北アメリカ大陸の四つを繋げて歪めたような形と規模だ。
インキュナブラ大陸はどこか骨盤に似て見えた。それ大陸中央部分から下部の大部分を占める大きな湖のせいだろう。そこを空洞としてみれば、なるほど、ほぼ線対称な大陸は骨盤ソックリだった。
この世界はこのインキュナブラ大陸とそのすぐ下にあるオーストラリア大陸のような島国アウストラル、その近くに小さな島々、そして少し離れた位置に卵型の大陸オーヴォから成っているのだという。
「細かい地図もあるよ。この国のね。まあ、地図はあげられないんだけど」
「えっ、くれないのか? だったらスマフォのカメラで撮影しておこう」
こういうときに地球のテクノロジーは便利だとつくづく思いつつ、賢吾はスマートフォンで地図を撮影させてもらった。
「何だい、それ。変な音を立てるね」
「ああ、これ? こっちの世界の技術の結晶。まぁ、今は動かすエネルギーがないから大事に使わないといけないんだけどさ」
「面白そうだなあ。動けば色々見せて欲しかったのに、残念だ」
賢吾も頷いてスマートフォンを仕舞った。
「では、他に聞きたいことは?」
「あ、そうそう、それだ。聞きたいと思ってたことは他にもある。あんたたちのことだよ。俺たちの世界じゃ獣人なんて空想上のものだからなぁ」
「僕たちの種族?」
「そう。こっちの世界じゃ常識なのか?」
キャルレは毛むくじゃらの顔にキョトンとした表情を浮かべた。
「いやはや。常識か非常識かはわからないが、君たちだって二足歩行のサルだろう? 同じことに思えるけどね。私には」
「サ、サル……」
キャルレの言葉に晶はその上品な顔を少し引き攣らせた。しかし賢吾は大いに納得して頷く。
「猿獣人、か。はは、それもそうだな。今の回答でなんとなくわかった、あんたたちはこの世界じゃ当たり前なんだって。それで、やっぱり身軽だったりするのか? 獣人によって違う?」
「うむ。遠い先祖がわかたれた動物の特性を引き継いでいるから、我々ネコ獣人、つまりヨル族は身が軽いよ」
キャルレはそう言って、誇らしそうにヒゲをしごいてみせた。
「おお!」
「爪もこうやって出し入れ可能なんだよ。器用さも自慢できる特性だと思うね」
「すげぇなぁ」
「ふふふ!」
キャルレはわかりにくいながら赤面しているようだった。そのままズバリ猫の姿で、大きさも大型の猫くらいだ。ただ、尻尾だけがない。それを尋ねてみると、キャルレはニッと笑った。
「獣人はどれもそうさ。尻尾を失った代わりに頭脳と、それから魔法を得た。僕たちは身体は小さいし数も少ないけど、魔物にだって負けない力を持っているんだ。それは君たちも知ってるだろう?」
「ああ。あのときは本当に……いや、あのときも助かった。改めて、ありがとう」
「いやいや、どういたしまして」
キャルレは自分の胸をトンと叩いた。
「この身に修めた力で誰かの役に立てるということは、我々にとっては素晴らしいことで誇りなのさ。
獣人には他にもオオカミの獣人もいるし、ウサギの獣人もいるし、本当にたくさんの部族がいるんだが、それぞれに特色を活かして日々の暮らしを営んでいる。サルの獣人…失礼、人間が一番多いから、街では少し肩身が狭いかな」
「そっか……。なかなか、上手く回らねぇもんなんだな」
賢吾はそこに差別的な臭いを感じ取り、顔色を曇らせた。
「キャルレさんは村の方々から尊敬されていらっしゃいますよ。お手伝いをしている私にはよくわかります」
「ありがとう、アキラ。さて、ちょっと喋りすぎたね。ケンゴはもう眠った方がいい」
「待ってくれ、まだ聞きたいことが……」
「それは明日にしよう。そろそろ薬が効いてくる頃だしね」
「そうですよ、賢吾さん。無理はいけません。さ、横になって」
「……わかった。じゃあ、明日もちゃんと来てくれよな」
賢吾は確かにキャルレの言うとおり、瞼が重くなってくるのを感じていた。晶にも促され、ベッドに横になる。いったいいつになったら動けるようになるのか……無力感ばかりが募るのだった。




