『逆チート』
賢吾は強烈な空腹を感じ、目を覚ました。瞼を開くと明るい光が目に差し込んでくる。そして、嬉しそうな声と共に晶の笑顔が視界に飛び込んできた。
「賢吾さん! よかった、目を覚ましたんですね」
「う……あ……あ、あれ? ここは……あれ? 何がどうなってんだ?」
きょろきょろと周りを見渡して、状況を把握しようとする賢吾。それと同時に腹の虫が盛大に鳴り、続けて痛みと疲れも襲ってくる。
「あっててて、あ、腹減った……あ、疲れて痛くて腹減った……この感情、どこから処理すりゃいいのかな?」
「ふふ。キャルレさんに助けてもらって、肩から矢を抜いてもらったことは覚えていますか? キャルレさんていうのは、あの……見た目が猫ちゃんソックリの人です」
賢吾は頷く。もちろん覚えていた。ソックリというか、あれは完全に猫である。尻尾がなくて服を着た、二足歩行の縞猫だった。
晶は賢吾の身体を抱き支えながらベッドに座らせた。固くどっしりしたクッションを背もたれとして差し込み、賢吾の手に水の入ったカップを持たせる。
「大丈夫ですか? 本当は寝かせてあげたいんですけど、現代と違って点滴も何もないので……。今はとにかく、栄養を取って回復に努めてください」
「お、おう、そうだな。頭がふらつくけど、たぶん貧血だろ。すぐ慣れるさ」
「おかゆを取ってきますけど、動かないでいてください。危ないですから。お水、もし飲めたら少しずつ口に含んでください」
「わかった」
晶は心配そうに何度も振り返りながら部屋を出て行った。それを見送った賢吾は背もたれに身体を押しつけ、目を閉じて深呼吸する。しばらくそうした後、賢吾はカップをゆっくり口元に運び、ひとくちだけ含んだ水を飲み下し、声帯に潤いを与えていく。
「はー、とりあえずまともに声が出せるようになったな」
ようやく人心地つき、賢吾は周囲に目を配った。ベッドと机くらいしかないが、清潔感のあるなかなか広い部屋である。ガラスの嵌まっていない窓から心地よい風が流れてきていた。
賢吾はさらにカップを傾け、水を口に含む。どのくらい意識がなかったのか、渇いた肉体に水分が行き渡ると、思考もクリアになる気がした。そして改めて、ここが異世界であることを認識する。
(そう、二足歩行の猫なんて、絶対地球じゃあり得ないからな……。この世界の色々なことも知りたいし、帰るためのヒントも、もっと詳しく見つけられると良いんだが)
腕を伸ばしてベッド脇の棚に空のカップを置くと、賢吾は手の先、足の先から動かし始めた。矢の刺さった左肩以外にも、軽微な傷がいくつもある。打ち身に裂傷、擦過傷……。骨にも少しダメージがあるようだ。
「ぐ……」
傷口がずっくんと痛んだ。大きな傷みの波と、それからじんわりと、小さくジクジクした傷みとがやって来る。かあっと熱が広がり、賢吾は呻いた。
背もたれに身体を投げ出し、すべての波が過ぎ去るまで目を閉じ呼吸をする。そう、呼吸をしなければならない。賢吾は食いしばった歯の間から息を吸う。
麻酔やら痛み止めやらが切れている。あの手術からそれなりに時間が経ったのだろう。
(魔術って便利なもんがある異世界なのに、それがまったく効果ないなんてなぁ。異世界転移なんて、物語の主人公ならチートをバカスカもらえたっていいはずなのに、これじゃてんでカスのお荷物能力……『逆チート』だ)
実は魔術が使えないだけでなく、刃物など武器や身を守る防具の類もほぼ使用できないという縛りも、この『逆チート』には含まれているのだが、それはまだこちらの世界では試していない。
だが魔術の効果が及ばないことはすでに証明されているので、おそらく武器を持つことはできないだろう。いざというときのため、いずれそれらも試してみなくてはならない。
(しっかし……こりゃ、しばらくは動けそうにないな)
賢吾は自嘲気味に嘆息した。
やがて控えめなノックがあり、お盆を手にした晶が入ってきた。木製の器に盛られた、湯気の立つ粥が美味しそうな匂いをさせている。
「オートミールになります。一応、乳がゆじゃなくて塩味にしてみました。お口に合うといいんですけど……」
「へぇ」
とりあえず食べられるものなら何でもいい。今は空腹を満たすことが先決である。賢吾はさっそく食べようとしたが、晶は木のスプーンを渡してくれない。
「なぁ」
「私が食べさせて差し上げますね。はい、あ〜ん」
「え、いや……」
「賢吾さん、ワガママはだめですよ!」
「お、おう……」
賢吾は、目の前で晶が食べやすい熱さまで冷ましてくれたオートミールを「あ〜ん」してもらった。それから、キャルレの処方した、拷問のように苦い薬をどうにかして飲み込み、身悶えした。天国から地獄だ。
「次はお薬ですよ」
「っ、ぐぇえ…………苦い!」
「我慢してください。はい、飴どうぞ」
甘い蜂蜜飴を口に放り込まれ、身体を軽く拭いてもらい、薬を塗りつけられた。ベッドに詰め込まれたクッションで体勢を整え、賢吾は寝かしつけられた。
「もう少し寝ておきましょうね、賢吾さん。ごはんを食べることができたので、回復は早いはずですよ」
「えーっと、あのな、寝る前にちょっと、色々聞いていいか? あれからどのくらい経った? あの猫の獣人? はどこにいるんだ?」
「キャルレさんはお仕事中です。賢吾さん、貴方は大怪我をしたんですよ? 今は治療に専念してください。質問はその後です」
「なっ、そんな……。それは君だって同じ条件じゃないのか。そうだ、晶、怪我の具合はどうだ?」
賢吾の問いに、晶はにっこりと微笑みを浮かべた。しかし、どこかうすら寒いものを感じる……。
「今、ですか」
「えっ?」
「いいえ、べつに。気にしていません。あ、賢吾さん」
「はい」
「貴方、全治二ヶ月ですよ。おとなしくしておいてくださいね」
「はい……?」
おとなしく、とはどの程度までのことを指すのだろうか。具体例を尋ねてみたかったが、晶の笑顔が怖くて聞けなかった。
「あと、これをお渡ししておきます。もし困ったら、いつでも呼んでくださいね」
晶がベッドの上に置いたのは、ガラスでできた尿瓶だった。




