猫の手も借りたい事態
謎の声は続けて言う。
「こちらへおいで。そう、お嬢さんの左手の方角だよ」
ふたりは固まったまま動けずにいた。あまりにも怪しすぎる。一見すると助けてくれたようにも思えるが、この男が敵ではないとは言い切れない。フェアディだって最初は、親切ぶって盗賊団からふたりを助け、傷の手当までしてくれたのだ。
「……どう、しましょう」
晶が戸惑いながら賢吾に意見を求める。だが、それに応えたのは賢吾ではなく、謎の声だった。
「警戒しなくていい、助けが必要なんじゃないかと思ったから、お節介させてもらっただけさ。信用できないというのなら、僕はもう行くし、さよならだね」
「待ってくれ!」
賢吾は思わずその声の持ち主を呼び止めていた。フェアディが目覚める前に早くこの場を離れなければいけないのは確かだ。敵か味方かわからないが、賢吾は賭けてみることにした。
「とりあえず行ってみよう。話が聞きたい。……少なくとも、敵じゃないと思うから」
「賢吾さんが、そう言うのなら」
晶は頷いた。霧はだんだん薄くなってきており、先程より周囲の様子がわかるようになってきた。フェアディたちはまだ倒れ伏したまま動かない。
「肩を貸しましょうか」
「いや、いい。それよりも荷物を頼む」
「わかりました。足元、気をつけてくださいね」
晶は自分のキャリーケースの上に賢吾のリュックサックを載せ、キャスターを引きながら賢吾の後を追った。肩を貸す必要はないと言われたが、いざとなれば助けに入れるよう隣を歩く。
倒れている男たちの合間を縫うようにフェアディが道をふさいでいた馬車の側まで行く。そこに立っていたのはなんと、マントを身につけた灰色の猫だった。
「やぁ。どうもはじめまして」
「は、はじめまして」
「……喋った」
賢吾がつぶやく。
直立二足歩行の猫なんて、それこそファンタジー物の映画や漫画でしか見ることのない存在だ。しかも喋る。それが目の前にいるのは不思議な感じだ。
猫のほうも興味津々といった様子でふたりを見ている。賢吾は一歩前に出て少し身体を傾けてお辞儀をした。
「ど……どうも。貴方が俺たちを助けてくれたのか?」
灰色猫はお辞儀を返すとニヤッと笑い、喋りだす。
「そうとも。見るに見かねてね。僕はキャルレ、ヨル族の旅人さ。さぁ、さっさとここを離れようじゃないか。手当も必要そうだし。そうだ、この馬車一台、いただいて行こうと思ってるんだが、異論はあるかな?」
流暢にしゃべる猫を前に、ふたりは顔を見合わせた。
「異論ありません。でも、運転は?」
「任せておきたまえ。しかし……まずは痛み止めの術かな。結構深いんじゃないかい、その傷」
キャルレはまだ矢を抜けずにいる、賢吾の肩の傷を指差して言った。
「ああ、これか」
「痛み止めの術? そんなことができるんですか? ぜひ、お願いします。あまり表情には出ていませんが、立っているのもやっとなんです」
「おい」
虚勢を張っていたのを暴露され、元々悪い賢吾の人相がさらに悪くなった。
「ふむ。この場で手当てはできないが、痛み止めと止血、それから鎮静作用のある術くらいはかけておこうか」
「あー……あのさ、俺、たぶんそれ効かないっすわ。魔術が利かない特異体質なんで」
「なんだって!?」
「ええっ!?」
キャルレと晶はあまりの驚きに大きな声を上げた。
「どういうことですか、賢吾さん」
「いや待てよ。確かにきみたちふたりは僕の導いた眠りの霧の中を平気で立っていた。術が効かないのだとしたら、納得できる」
「そんな……。じゃあ、賢吾さんの傷は自然治癒に任せるしかないってことですか?」
「ああ。そういうことだと思う」
「そんな、無茶です……」
晶があまりにも沈痛な面持ちでうつむくので、賢吾はなぜか罪悪感にチクチクと心を刺された。
そういえば、晶と初めて出会ったハリウッドで、武装強盗に銃で撃たれたのも左肩だった。あのときは相手の動きを読んで動いたため、かする程度で済んだのだが、今回はうまく行かなかった。
「なぁ、あき……あいてててっ!」
「賢吾さん!?」
声をかけようとした瞬間、肩の傷が痛んで賢吾の膝から力が抜けた。呼吸するのがやっとの賢吾を、晶が自分の肩へ腕を回すようにして半分担ぎ、馬車へと運び込む。キャルレが御者台へ登りながら言った。
「早く矢を抜かねば。とにかく一番近い集落へ急ぐぞ」
「お願いします」
「揺れると痛いからな、布でも噛ませておいた方がいい。術が効かないのなら、かなりきついぞ」
晶は息を飲んだ。
「賢吾さん、しっかりしてくださいね。気絶しないで……。今、意識を失ってしまったら……!」
その先は、言葉にできなかった。最悪の場合、賢吾はここで死んでしまうだろう。矢が刺さったままになっていることから、血液はそこまで流れ出ていない。だが、ここまでの疲労の蓄積、そして度重なる戦闘によるダメージ、食事を抜かざるを得なかったことによるエネルギーの欠如で賢吾の肉体はボロボロだ。
ここまではアドレナリンの分泌に助けられて動けていたにすぎない。気を抜いてしまえば、即座に昏睡、そのまま死んでしまってもおかしくなかった。
晶は賢吾が不安にならないよう、気丈に笑いかけて、荷物から取り出したペットボトル入りの清涼飲料水を賢吾の目の前で振った。
「私の飲みかけで申し訳ないんですけど、今はきっとこれが必要だと思います。自分で飲めますか?」
馬車の硬い床に寝かされた賢吾は、ぼんやりそれを見上げていた。身体が火照り、喉がヒリヒリと痛む。子どもの頃、風邪でダウンしていたときに母親が看病してくれた記憶に似ている。と、賢吾は思った。
「大丈夫ですか」
「うー……ああ、すまないな、ぁ……」
晶に支えられ、ペットボトルを口に運ぶ賢吾だが、痛みと馬車の揺れで上手く飲めずにいた。せっかくの水分をこぼすわけにもいかないと四苦八苦している賢吾の手に、晶の手が添えられる。
「どうぞ」
「あ、ああ……ありがとう」
「どういたしまして」
晶はにっこりと微笑んだ。賢吾は晶の力を借りて今度こそスポーツドリンクを口に含んだが、上手く呑み込めずむせて吐き出してしまった。
「クソ……、うまく、いかねぇ、な」
「もう一度、やってみましょう」
「いや、無駄だよ。これは晶が飲め、貴重な水分なんだし。晶だって喉が渇いただろ?」
「いいえ! 今は賢吾さんこそ水分とエネルギーが必要な時です!」
晶に返そうとしたペットボトルは押し返された。頭では賢吾もそうした方がいいと思っていたものの、実際にはもう指先に力も入らず、目も開きにくくなってきている。さっきの失敗で傷口に衝撃が走って、なけなしの体力を削り取られたのだ。
「賢吾さん? しっかりしてください、賢吾さん!!」
晶の平手が容赦なく頬を打つ。賢吾は薄目を開けて力なく笑った。
「こうなったら……。ごめんなさい、賢吾さん」
「ン……」
晶はペットボトルからスポーツドリンクを口に含むと、それを口移しで賢吾に与えた。少しずつ流れてくる甘露を、賢吾の体は無意識のうちに飲み下していく。晶はそれを喉の動きで確かめると、すべての水分がなくなるまで同じことを続けたのだった。




