気がつくと密林
「ここ、どこ……」
美智子は呆然とした声を上げた。
そこは緑に覆われた森の中らしかった。高い木々が空を隠し、湿度の高い空気が熱を孕んでいる。どこからか聞こえる鳥の声……まるでジャングルのようだ。
額に手をやり、何が起こったのかを考える。
だが、上手くいかない。
彼女は自分の腰に届くまで長く伸ばした自慢のグレイアッシュの髪の毛を指に巻きつけた。
視線を落としていくと、フリルのたくさんついたノースリーブの白のブラウスと、ベージュのプリーツスカート、それに編み上げのサンダルが目に留まる。
(オシャレしてきたんだっけ。なんで……)
ふとした拍子に視界に入った左手にキラリと光る指輪が、彼女のぼんやりした意識を一気に現実に引き戻した。
そう、彼女は神谷 美智子。22歳。社会人一年目の、アパレルショップの店員だ。オシャレをしていたのは恋人のため。同級生で恋人の久井 賢吾と一緒に、少し早めの夏休みを利用して大阪旅行に来ていた。
朝、ホテルを出ようとロビーに下りたところで、知人の高校生カップルに再会したのを覚えている。声をかけようとしたとき、急にフラッシュを焚いたような強い光に晒されて、そこからの記憶がない。
そして気づけば湿度の高い密林だったというわけだ。不気味な鳥の声、足元の柔らかい土の濃厚なにおい。空気は生暖かいのに、美智子は冷や汗が止まらなかった。
(そうだ、賢ちゃん! どこ……?)
辺りを見回すと、まずは落ちている自分のキャリーケース、そして……
「やっば……! オレたち、もしかしてさ、また異世界に来ちまったんじゃね?」
手の甲で汗を拭いながら、同じく辺りの様子を伺っている男子高校生、新島 流を見つけたのだった。
身長は155cmの美智子より10cm以上高く、かなり華奢だがおよそ半年前に出会ったときよりは男らしくなった感じがする。
生まれつきだという明るい髪色と可愛らしい感じの顔立ちで、黙っていればモテそうなのだが、口を開けばアホな発言が飛び出るわ変顔がデフォルトだわの、かなり残念な青年だ。
改めて周辺に視線を走らせるが、ここには彼と美智子のふたりしかいないようだ。
「……異世界? また? って、ここは地球じゃないってこと? なんでそれが貴方にわかるのよ……?」
美智子の当然の疑問に、流はチッチッチッ、と節をつけて立てた人差し指を振った。
「逆にさ、あんなふうにいきなり光に包まれて、変なとこに来ちゃってて、なんで地球だと思うワケ? オレだって美智子ちゃんだって、変な世界に飛ばされた経験アリなワケだしさ」
「それは……そうだけど……」
美智子はイラッとした。緊急事態だというのに、流は相変わらず。だが、今はケンカをしている場合ではない。なにせ、またしてもいきなり知らない場所に投げ出されたばかりなのだから。
そう、またなのだ。前回はライオンのようなものに追い立てられて落下したと思ったら異世界だった。恋人の賢吾とは離れ離れで、独りきり、酷い目にあった。
今回も賢吾とは離れてしまったが、知り合いの顔があるだけでも多少は心が落ち着くのか、パニックにはならなかった。そう、たとえそれがそこまで仲良くもない、生意気な年下の知り合いだとしても。
「それより、ここには私たちだけなのかしら。賢ちゃんや晶ちゃんはどこ?」
「さぁ? 探してみるにしても、ここが人里からどんだけ離れてるかによって取れる行動が変わってくるし」
「それって、さっさと動いたほうが良いってことかしら?」
美智子は怪訝そうに尋ねた。
「まー、そゆこと。ただ、あんま体力を消耗しないようにしないとな」
流は自分の荷物をほどき始めた。中身をチェックし、美智子にもなくなっているものがないかどうかを確認させる。互いにスマートフォンを出して確かめるも、やはり圏外だ。ふたりはバッテリーを節約するためにスマホの電源を落とすことにした。
「ひとまず食い物と飲み物があって助かったな。んじゃ、どっちに行く? 美智子ちゃんが決めていいよ」
「どっちって言われても……。貴方には心当たりとかないの?」
「全然。美智子ちゃんもなさそうだよね」
「ええ、ちっとも。だって、本当にただの山の中なんだもの。むしろ、なにかのドッキリで近くの山に捨てられたっていうのをまずは考えちゃうわ」
異世界転移よりよほど現実的ではあるが、これがもし現実の人間の仕業だとしたら、それはつまり誘拐事件ということになる。ああ、別のトラブルよこんにちは、だ。
「……自分で言うのもなんだけど、異世界トリップのほうがマシよねぇ」
「同感〜!」
頭の後ろで手を組んで、あっけらかんと流は言う。美智子はため息をついて辺りを見回し、歩けそうな道を探ってみた。
「そうねぇ。前か後ろか……。とりあえず、まっすぐ前に歩いてみましょうか」
「オッケー。んじゃ、俺が先に行くからついてきてよ」
流はそう言って、美智子のキャリーケースを掴んで歩き始めた。てんで気の利かない青年に見えて、なかなかどうして女性の扱いを心得ているらしい。美智子はため息をひとつこぼして、彼の後をついていった。
ジャングルの道はなだらかとはいかない。草を掻き分け進みながら、ふたりは賢吾と晶の名を呼び続けた。だが、返事どころかふたり以外の人間がいる気配すらない。
「どうしよう……。本当に私たち、だけ、なのかしら……」
「さぁ? 前にオレが異世界に放り込まれたときは、晶が変なじーさんに呼ばれててオレは巻き添え食っただけだったからなぁ。晶とは全然違う場所に落とされたし。今回もそうなのかもな」
「そう。まぁ、あのふたりなら、きっと大丈夫よね……」
そのとき、獣道の脇から草葉を揺らす激しい音がし、ふたりの目の前に巨大な猪が現れた。
「えっ……」
突然の遭遇に、ふたりは驚き固まった。