古今 Ⅰ
蕗原 美勇の朝は遅い。
土曜日とは言え、目を覚ました時刻は9時半を過ぎた頃だった。
「寝過ぎた……」
ふらふらと身体を揺らしながら、朝一でシャワーを浴びる。
寝起きの冴えない頭をどうにか冷水で叩き起こして、トースターに食パンを一枚放り込む。
時間は二分。若干焦げ始めたあたりが良い。
その間に、ジャムやら何やらを取り出して、ノート型パソコンの電源を入れる。
「……ん、メール」
動画を見る前に、トースト片手にメールを開く。
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今月の生活費について
from:蕗原 千里
昨日、口座に入れておきました。
確認してください。
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たったこれだけ。
月に一度のこれだけが、少女と母とを繋ぐ唯一の要素だ。
だがーー
(これで、良い。……こっちの方が楽)
心の奥底に沈む何かを更に深く押さえ込んで、美勇はメールを閉じた。
少女は、逃げた。
彼女は、逃げることを知らず、その選択肢も見えていなかった。
「……はぁ、勉強しよ」
独り言ち、テキスト類を手に取った。
けれども、ものの数分で、その手は止まることとなった。
それは、親子喧嘩に於ける父親の葛藤の話。
些か中学生に読ませるには不適切なその文章を前に、美勇のペンは完全に止まった。
「……そのときの彼の心情を答えよ、ねぇ…………」
そんなもの知ったこっちゃ無い。
父親の感情など分からない。分かりたくない。
不意に、怒号と頬の痛みが脳裏を過ぎる。
(…………もう、終わったこと)
胸にモヤモヤとしたものを感じつつ、彼女は椅子から勢い良く立ち上がった。
「買い物行こっと」
気分転換兼昼と夜用の食材を求めて、少女は大きめの鞄を手に取った。
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「……魔法少女の記録って、こんなに出回ってるんだ」
結は一人、図書館の本棚一つを丸々埋め尽くす本群を見つめ、口の中で言の葉を転がす。
マギホンで大抵の事(魔法少女関連はより細かく重要な要素まで)を調べられるが、それはそれとして、本好きとして図書館でも調べたくなった。
彼女の本日のお目当ては、拳銃型の魔法具を所持した者と、『集束』の特性を持つ者との魔法少女の記録だ。
早々に見つかって、中々の大きさのそれらを運ぶ為に抱え直した時、少女の目に一冊の本が飛び込んできた。
「ーークリムゾン・アンドロメダ…………」
それは昌継に映像を見せて貰った、かつて最強と称された魔法少女についての本だった。
結は、時間に余裕があることを良い事に、一切の躊躇無くその本も手に取ったのだった。
読書用スペースのテーブルに三冊の本をそっと置き、結は一番上の本を手に取った。
ーー絶潰の魔法少女 クリムゾン・アンドロメダ。圧倒的身体能力と超回復力を武器に戦う魔法少女。
ーー彼女の遍歴等を此処に示す。
少女には、少し気掛かりな事があった。
謡と映像を見ていた時の、父親の目が。
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「お嬢ちゃん、おじさん達と『イイコト』しようや」
昼間から面倒なのに絡まれた。
それも三人に。
美勇の思考は、一重にこれに尽きる。
なお、どうやって逃げたものかとも考えてはいるが。
逃げたい。
どうせ碌な目に遭わない。
そんな事は火を見るより明らかだ。(美勇にとって火は何処かの誰かさんのせいで絶対なものでは無いが)
兎も角、着いていった後の惨状は容易に想像がつく為、逃げ出したい。
だと言うのにーー
(…‥動けない…………?)
混乱する彼女の鼻腔を突く、嗅ぎ慣れたけれども慣れない酒精の臭い。
それが、少女の四肢によりきつく鎖を巻き付ける。
「……ぃや、止めて…………!」
最近教わった目や脳の常時強化によって、常人を遥かに上回る視力が、美勇を囲み、手つきにしようとする男共の濁った瞳を捉えた。
言うことの聞かない身体は、けれど、勝手に冷や汗を流し続け、がたがたと震え上がる。
カツン、と下卑た笑いの中に、乾いた音が響いたのは、そのすぐ後だった。
「ーー魔法局支部西側、エイティーン前の路地裏です。婦女暴行になりかねません。至急お願いします…‥時間は、稼ぎますので」
ヒールの音を微かに鳴らし、真っ直ぐに向かってくるのは、スーツ姿の一人の女性。
「なぁに見てんだ、コラ」
堪え性の無い男が一人、殴り掛かった。
腰が入っておらず、側から見ても見るに堪えない程度の拳。
そんなものが通用する筈が無かった。
一歩、踏み込み、掌底を鳩尾に叩き付ける。
「ーーげぇあ…………!」
えづき蹲る。
何とも汚い声を漏らした男の姿がそこにはあった。
「……てんめぇ、死ねやぁ……!」
足元の鉄パイプを振りかぶる。
袈裟気味に振るわれたそれを半歩横に逸れて躱す。
すれ違いざまに、裏拳を男の汗ばみ滑った顎に入れ、間髪入れずに蹴りを入れて、通路の端に適当に捨てる。
カン、と女性は足元の小石を蹴り上げた。
顔面目掛けて飛来する礫に、最後の男は思わず目を閉じた。
「ーー寝てろ、クソ野郎」
その瞬間に認識の外から、懐に入り込む。
身長差を逆手に取って、美勇に当たらないようにその鉄拳を真下から跳ね上げる。
「もう大丈夫よ」
「…………ぁ……、加集さん…………?」
そんなこんなでものの数十秒で、男三人をぶちのめした女性の名は、加集 香織。
ある魔法少女の母にして、元ヤンである。
「ーーあら……」
「ーーーーッ」
一瞬の後に、香織は困ったような笑みを浮かべた。
美勇が抱きついてきて、離れないのだ。
「よしよし、大丈夫。全員倒したからね」
昔、ホラー映画を偶々観た結にしたように、彼女は美勇の頭を暫くの間、撫で続けた。
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