隋紀ハ 大業13 (617)年(51)
5月30日、李建成等は晋陽に到着した。
(原文では六月、己卯となっているが、大業十三年の六月に己卯の日はないため、五月、己卯の(5月30)日の間違いであると思われる)
ところで劉文静は李淵に突厥と盟約を結ぶことを勧め、突厥の兵を借りて軍勢を増やそうと提案した。
そして李淵はこの進言に従い、自ら書状をしたため、へりくだった言葉を連ね、多くの贈り物を(東突厥の)始畢可汗に送って述べた。
「私は大いに義兵を挙げることを望み、遠くの主上(煬帝)を都に迎え、再び突厥と和親すること、開皇(煬帝の父・文帝)の時のようにしたいと思っております。
もしあなたが私と共に南進されたいと思われるのであれば、願わくば民に略奪・暴行はしないでいただきたく、もしただ我らとの和親を望まれ、何もなさらずに宝物を受け取られるかどうかは、ただ可汗の選択にお任せします」と。
そして始畢可汗は李淵からの書状を得ると、自身の大臣に言った。
「隋主(煬帝)の人柄を我は知っているが、もし彼が遠く(江都)から戻って来るのを迎えるならば、必ず唐公(李淵)を殺害し我を攻撃してくることは疑いない。
ゆえにもしも唐公が自ら天子(皇帝)となるならば、我は(彼ら遊牧民が苦手な中華の)真夏を避けず、軍を出動させて彼を助ける」と。
そこで直ちに命令しこの意思を記させて李淵への返書とした。
そして李淵の使者はたった七日で帰ってきたので、将官と補佐官は皆喜び、突厥の思惑に乗ることを求めたが、李淵はそれを許可しなかった。
さらに裴寂、劉文靜等は皆言った。
「今義兵が集まったとは言っても軍馬が大変不足しているため、むしろ突厥の兵は必要とせず、彼らの馬こそ不可欠で、もしそのことに対する返信を引き延ばせば、恐らく悔いを残すでしょう」と。
それを受けて李淵は言った。
「突厥への対処はそれで良いとして、諸君はさらにその次(都の長安を奪った後)のことを考えるべきである」と。
裴寂等はそこで天子(煬帝)を尊んで(祭り上げて)太上皇とすることを求め、さらに長安留守(で煬帝の孫)の代王・楊侑を立てて皇帝とし、それによって隋の皇室を安んじ、檄文(自己の主張に同意を求める文書)を各郡県に(皇帝とした楊侑の名で)送付し、旗を今までのものと変更して、紅白の物を混ぜて用い、それによって突厥に自分達が隋と同一ではないと示すことを提案した(紅は隋の色なのでそれに白を混ぜることは、隋と同一ではないことを示すことになる)
それに対して李淵は言った。
「これは『耳を掩って鐘を盗む』(やましいことをしながら、そのことをまるで知らないようなフリをして物事を行なう)というべきものだが、しかしこれは状況に迫られた、やむを得ない処置なのだ」と。
そしてそこで李淵はこれを許可し、使者を派遣してこの決定を突厥に通知した。
訳者注
※突厥
とっくつ、とっけつ、テュルク→トルコ。6世紀中頃〜8世紀にかけて、モンゴル・中央アジアを支配したトルコ系遊牧民族。583年に東西に分裂した。
※可汗
突厥、回紇、蒙古(モンゴル)等の君主の称号