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隋紀七 大業13(617)年 (48)
5月17日(東)突厥が数万の軍勢で晋陽に侵攻して、その軽騎兵は晋陽外城の北門から入り、東門から出て行った。
そこで李淵は裴寂等に命じ兵を率いて守備につかせ、全ての城門を開け放ったので、突厥軍はその思惑を測りかね(真意が分からず)敢えて進入しなかった。
そしてこの事で人々は王威、高君雅が本当に突厥を呼び寄せたのだと思い、李淵はそれを受け王威、高君雅を斬って首をさらした。
しかし李淵の部将の王康達が千人余りの兵を率いて出撃し、彼らは全員戦死したため、晋陽城中の人々は恐れおののいた。
そこで李淵は夜に軍を派遣してひっそり城から出し、朝、旗を掲げ太鼓を鳴らし別の道からやって来させて援軍のように見せかけたので、突厥は常にこれが気に掛かり、晋陽城外に二日留まると、晋陽城の周辺でやりたい放題略奪して去った。