隋紀七 大業13(617)年 (47)
ほどなくして晋陽の鄉長である劉世龍が李淵に密告した。
「王、高両副留守は晋祠での祈雨(雨乞い)の儀式の際、唐公(李淵)に随行する(付き従う)ことを望み、そこで唐公を亡き者にしようとしています」と。
それにより5月14日夜、李淵は李世民に命じ晋陽宮城の外に兵を潜ませた。
さらに5月15日早朝、李淵と王威、高君雅は晋陽宮で共に座って政務を処理していたが、李淵は前もって劉文静に命じ、開陽府の司馬で(東郡)胙城の人劉政会を引き連れ、晋陽宮に入り李淵達が政務を処理している場所の前に立たせ、そこで劉政会は「密告状があります」とはっきり述べた。
そこで李淵は王威等に目で合図をして、劉政会から密告状を受取りそれに目を通すよう促したのだが、劉政会は彼らに密告状を与えず言った。
「告発されているのは副留守の事であり、ただ唐公(李淵)のみこれに目を通すことができます」と。
そこで李淵が上辺は驚いたように見せて言った。
「どうしてそのようなことが起きようか!」と。
けれどもその密告状を見るとそこで言った。
「王威、高君雅が密かに突厥を招き寄せ侵攻させようとしている」と。
それを聞いた高君雅は袂を払って大いに罵った。
「これは要するに謀反人が我を殺そうとしているだけだ!」と。
そしてこの時李世民は既に軍を張り巡らせて晋陽宮城から四方八方に通じる道を塞ぎ、劉文靜はそこで劉弘基、長孫順德等と共に王威、高君雅を捕らえて投獄した。
訳者注
※晋祠
周の武王の子で唐に封ぜられた西周・春秋時代の晋国の祖である唐叔虞をまつる祠として建てられた(唐叔虞の子である燮の時から晋と称するようになった)
※袂(衣の袖)を払う(興奮することの例え)




