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隋紀七 大業13(617)年 (42)
また行軍司鎧で(太原郡)文水(県)の人武士彠、前太子左勲衛の唐憲、憲の弟唐倹らは皆、李淵に挙兵を勧めた。
そして唐倹は李淵に説いた。
「明公(李淵)が北の突厥を味方につけ、南では豪傑を集め、それによって天下を取れば、これは湯王や武王のような壮挙であります」と。
しかし李淵は唐倹に少し苦言を呈した。
「我は湯王や武王を敢えて比較の対象にはしない上、私的にはつまり生き長らえることを考え、公的にはつまり乱世を救うことを目的とするから、卿(唐倹)はとりあえず言動を慎め、我は少しこの問題を検討する」と。
ちなみに唐憲は唐邕の孫である。
加えてその時李淵の長男である李建成、四男である李元吉がなお目的地の大興城からそう遠くない河東郡にいたので、それにより李淵は引き延ばし挙兵をしなかった。
訳者注
※湯王や武王
殷の湯王と周の武王のこと。
湯王は夏の桀王を武王は殷の紂王を滅ぼした。
桀王と紂王は暴君の代名詞。
※唐邕
中国南北朝時代の王朝、北斉の事実上の創始者である高歓、北斉、北周に仕え、隋の初めに死去した人物。