隋紀七 大業13(617)年 (30)
李世民は右驍衛将軍である長孫晟の娘を娶り(妻に迎え)、右勳衛の長孫順德は長孫晟の族弟(一族の中で同世代の年少者)であるが、右勳侍で(京兆郡)雲陽(県)の人劉弘基と、全ての遼東の役(高句麗征伐)の召集から逃れて、亡命し(太原郡の)晋陽に至って李淵を頼り、彼らは李世民と親しくなった。
左親衛の竇琮は(隋初の太傅であった)竇熾の孫であり、彼も同じく亡命して太原郡(晋陽)にいたが、常日頃から李世民とギクシャクしていて、彼は常にそのことを不安に思っていたため、李世民はそのことに配慮して彼に対応し、自らの寝室に出入りすることを許したため、竇琮の気持ちはそれによって安らいだ。
訳者注
※太傅
皇帝の師、臣下が就任出来る最高の官職の一つであるが名誉職である。
※ 雲陽(県)の人劉弘基(582年 - 650年)という訳について。
『資治通鑑』と『旧唐書』「劉弘基」列伝に彼は(雍州)池陽(県)の人とあるが、彼は隋の時代に生まれて青少年期を過ごした人物で、隋書の志によれば雍州(京兆郡)に雲陽県はあるが池陽県は無く、旧唐書の志には貞観元年(627)年に雍州(隋・京兆郡)の雲陽県を改めて池陽県とし、貞観八(634)年に池陽県を改めて再び雲陽県の名に戻したとあり、中国歴史地図集の隋代の地図にも池陽という地名はないため、この翻訳では劉弘基を雲陽の人とした。
上述したことは胡三省の注を基にしたものであるけれども、胡三省は旧唐書の志にあると言って、貞観三(629)年に雲陽県を改めて池陽県にしたと記述したが、しかし旧唐書の志を確認してみると、貞観元(627)年に雲陽県を改めて池陽県にしたと記述されていて、さらに胡三省はこの後に続く、貞観八(634)年に県名を池陽から雲陽に戻した事には触れていないため、唐代の雲陽については胡三省の注ではなく、旧唐書の志の記述を採用した。
※参照文献
・旧唐書 巻五十八 列伝第八 劉弘基(中華書局P2309、2311)
・隋書 巻二十九 志第二十四 地理上 (隋・雍州)京兆郡(中華書局P809)
・旧唐書 巻三十八 志第十八 地理一 十道郡国 関内道 京兆府(唐・雍州、隋・京兆郡)中華書局P1395、1397