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隋紀六 大業11(615)年 (10)-大器の片鱗-
8月24日、煬帝は天下に詔して兵を募った。
そして太守(郡の長官)・県令(県の長官)達は呼びかけに応じ、競い合うように国の危難を救うために駆けつけた。
ところで李淵の子である李世民の年は十六、彼は募りに応じて屯衛将軍・雲定興に属し、そして彼は雲定興へ兵に多くの旗と戦鼓を持たせて、疑兵(兵が多くいるように敵に見せかける)の計を用いるように説いた。
「始畢が敢えて挙兵して陛下を包囲したのは、必ず我等が急いで陛下のもとに赴き、お援けすることが出来ないと考えたゆえです。そこで我等が取るべき策として、昼は旗を掲げて数十里に渡って途切れさせず、夜は鉦を叩き戦鼓を打って互いに響かせれば、突厥の者どもは必ず救援の軍が大いに至ったと思い、恐れをなして逃れ去ります。さもなければ、突厥は数が多く我等は少ないため、もし突厥が全軍で我等のもとにやって来て戦えば、絶対に支えきることは出来ません」と。
そして雲定興はこの李世民の言に従った。




