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隋紀七 大業13(617)年 (23)

4月13日、李密(りみつ)裴仁基(はいじんき)孟讓(もうじょう)を派遣して兵ニ万人余りを率い、回洛(かいらく)東倉(とうそう)を襲撃させて攻め落とし、しまいには東都(とうと)洛陽(らくよう))の天津橋(てんしんきょう)に火を放ち、兵を自由にしてやりたい放題略奪をした。


 そこで東都の軍は出兵してこれを攻撃し、裴仁基等は敗走、李密は自ら軍を率いて回洛倉(かいらくそう)に駐屯した。


 さらに東都の兵は依然(いぜん)二十万人余りいて、城の上で拍子木(ひょうしぎ)を鳴らして警戒し、将兵は昼夜甲冑を外さなかった。


 そんな訳で李密は(河南(かなん)郡の)偃師(えんし)(県)、金墉(きんよう)城を攻めたが皆攻略できず、4月15日、李密は洛口に帰還した。


訳者注


回洛倉(かいらくそう)


現・洛陽(らくよう)瀍河(てんか)回族(かいぞく)小李村(しょうりそん)にかつてあった食糧倉庫。


天津橋(てんしんきょう)


隋唐(ずいとう)洛陽城の洛河(らくが)上に架けられた橋で、交通の要路(ようろ)であり、橋の北は皇城(こうじょう)(官庁街)、橋の南は居住区に繋がっており、大変繁華(はんか)な場所であった。


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