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隋紀七 大業13(617)年 (22)
李密は秦叔宝および(済北郡)東阿(県)の人程齩金を得たので、皆驃騎(将軍)に任命した。
さらに李密は軍中で最も驍勇(勇ましくて強い)な者八千人を選び、彼らを分け四驃騎(四人の驃騎将軍)のもとに配属し近衛兵として、それを「内軍」(近衛軍)と称し、彼は常に言った。
「この八千人は百万の兵に匹敵する(対抗できる)」と。
そして程齩金は後に名を知節と改めた。
また羅士信、趙仁基は皆軍を率いて李密に帰順し、李密は彼らを総管(司令官)に任命し、各々の部隊を率いさせた。
訳者注
※秦叔宝
彼は河南討捕大使・張須陀の配下であったが、張須陀が李密との戦いで戦死すると彼の後任である裴仁基に従い、裴仁基が李密に降ると共にその配下となった。
張須陀と李密の戦いの詳細は「隋紀七」大業12(616)年 (18)-大海寺の戦い- を参照。
※羅士信
彼も秦叔宝と同じく張須陀の配下であったが彼が戦死すると、裴仁基に従って李密に降りその配下となった。