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隋紀七 大業13(617)年 (17)
(河東郡)汾陰(県)の人薛挙は金城郡に仮住まいし、驍勇(勇ましく強いことは)絶倫(ずば抜けていて)、家中の資産は巨額で、豪傑と親しく交際し、西の辺境において勢力を持っており、金城府の校尉であった。
当時薛挙が仮住まいしている隴右(隴山以西の地)で盗賊が蜂起し、金城県令の郝瑗は募兵して数千人を得、薛挙に軍を率いて盗賊を討伐させた。
夏、4月3日、郝瑗は出陣前の兵に甲冑を授け、酒宴を行なって兵をねぎらい、薛挙は我が子の薛仁果(薛仁杲)および仲間の十三人と共に、酒席において郝瑗を脅迫して軍を動かし、郡県の役人を監禁し、食糧庫を開き民に施して救済した。
そして薛挙は西秦霸王と自称、年号を秦興と定めた。
訳者注
※隴山(六盤山)
現・寧夏回族自治区南部、甘粛省東部、陝西省西部にまたがる六盤山脈のこと。
これより600年後の1227年にチンギス=ハンが六盤山(六盤山脈の主峰、現・寧夏回族自治区固原市)で死去した。