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隋紀七 大業13(617)年 (16)
郭子和は永楽王を自称し、年号を正平と定めた。
彼は父を敬って太公(父親の尊称)とし、弟の郭子政を尚書令、同じく弟の郭子端、郭子升を左僕射、右僕射に任命した。
郭子和は二千余りの騎兵を有しており、南の梁師都と連合し、北の突厥に従属して、各々に我が子を送って人質とし、それにより自己の勢力を固めた。
そして始畢可汗は劉武周を定楊天子、梁師都を解事天子、郭子和を平楊天子に封じたが、郭子和は固く辞退したため、そこで改めて始畢可汗は彼を屋利設に封じた。




