表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

60/139

隋紀七 大業13(617)年 (14)

 雁門(がんもん)郡丞(ぐんじょう)である河東(かとう)郡の人陳孝意(ちんこうい)は、虎賁郎将(こほんろうしょう)王智弁(おうちべん)と共に劉武周(りゅうぶしゅう)を討伐するため、彼の支配下にある桑乾鎮(そうかんちん)を包囲した。


 2月21日、劉武周は(東)突厥(とっけつ)軍と連合して王智弁を攻撃しこれを討ち取り、陳孝意は逃走し雁門(郡)に還った。


 3月17日、劉武周は襲撃して楼煩(ろうはん)郡を攻略、進撃して汾陽宮(ふんようきゅう)を奪取し、汾陽宮の宮女(きゅうじょ)を捕獲したので、彼女等を(東)突厥の始畢可汗(しひつかがん)に贈ったところ、始畢可汗は馬を与えて彼に報い、劉武周の兵力はますます増え、彼はさらに定襄(ていじょう)郡を攻め落とした。


 さらに突厥は劉武周を封じて定楊(ていよう)可汗とし、狼頭旗(ろうとうき)(突厥が軍営の前に立てる旗)を贈った。


 そして劉武周は皇帝に即位し、妻の沮氏(そし)を立てて皇后とし、年号を定めて天興(てんこう)とした。


 さらに劉武周は衛兵(えいへい)楊伏念(ようふくねん)尚書(しょうしょ)左僕射(さぼくや)に任命、妹の夫で劉武周と同じ馬邑(ばゆう)県の苑君璋(えんくんしょう)内史令(ないしれい)に任命した。


 その後劉武周は軍を率いて雁門城を包囲し、陳孝意は力を尽くして雁門城を守り、隙につけ込み城を出て劉武周を攻撃し、度々劉武周を破ったけれども、久しく外から救援が無いことにより、陳孝意は密使を派遣して江都に至り急を告げさせたが、まったく返信は無かった。


 それでも陳孝意は死を覚悟して雁門城を守ることを誓い、朝夕詔敕(しょうちょく)が納められた倉に向かいひざまづいて涙をながしたので、彼の慟哭(どうこく)に周りの者達は心を打たれた。


 そして劉武周(りゅうぶしゅう)雁門城(がんもんじょう)を包囲すること百日余り、城内の食糧は尽き、校尉(こうい)張倫(ちょうりん)陳孝意(ちんこうい)を殺して劉武周に降伏した。


訳者注


尚書しょうしょ左僕射(さぼくや)右僕射(うぼくや)


正宰相である尚書令(しょうしょれい)が欠員になると、次官である左僕射、右僕射が宰相(さいしょう)となった。


(ずい)そして(とう)貞観(じょうがん)以降になると、ほぼ宰相と同じ意味になった。


内史令(ないしれい)中書令(ちゅうしょれい)


隋では内史令、その前後では中書令と言った。


内史省(中書省)の長官のこと。


内史令(中書令)は詔勅(しょうちょく)(皇帝が自分の考えを公式に示す文書)の起草(きそう)(原案を書くこと)を担当したため、隋そして唐の初期には強力な権限を持ち、実質的な宰相であった。


宰相(さいしょう)


現代の日本で言えば総理大臣のこと。


現代の日本と違い昔の中国では宰相が複数いることがある。

















評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ