隋紀七 大業13(617)年 (14)
雁門郡丞である河東郡の人陳孝意は、虎賁郎将の王智弁と共に劉武周を討伐するため、彼の支配下にある桑乾鎮を包囲した。
2月21日、劉武周は(東)突厥軍と連合して王智弁を攻撃しこれを討ち取り、陳孝意は逃走し雁門(郡)に還った。
3月17日、劉武周は襲撃して楼煩郡を攻略、進撃して汾陽宮を奪取し、汾陽宮の宮女を捕獲したので、彼女等を(東)突厥の始畢可汗に贈ったところ、始畢可汗は馬を与えて彼に報い、劉武周の兵力はますます増え、彼はさらに定襄郡を攻め落とした。
さらに突厥は劉武周を封じて定楊可汗とし、狼頭旗(突厥が軍営の前に立てる旗)を贈った。
そして劉武周は皇帝に即位し、妻の沮氏を立てて皇后とし、年号を定めて天興とした。
さらに劉武周は衛兵の楊伏念を尚書左僕射に任命、妹の夫で劉武周と同じ馬邑県の苑君璋を内史令に任命した。
その後劉武周は軍を率いて雁門城を包囲し、陳孝意は力を尽くして雁門城を守り、隙につけ込み城を出て劉武周を攻撃し、度々劉武周を破ったけれども、久しく外から救援が無いことにより、陳孝意は密使を派遣して江都に至り急を告げさせたが、まったく返信は無かった。
それでも陳孝意は死を覚悟して雁門城を守ることを誓い、朝夕詔敕が納められた倉に向かいひざまづいて涙をながしたので、彼の慟哭に周りの者達は心を打たれた。
そして劉武周が雁門城を包囲すること百日余り、城内の食糧は尽き、校尉の張倫が陳孝意を殺して劉武周に降伏した。
訳者注
※尚書左僕射、右僕射
正宰相である尚書令が欠員になると、次官である左僕射、右僕射が宰相となった。
隋そして唐の貞観以降になると、ほぼ宰相と同じ意味になった。
※内史令(中書令)
隋では内史令、その前後では中書令と言った。
内史省(中書省)の長官のこと。
内史令(中書令)は詔勅(皇帝が自分の考えを公式に示す文書)の起草(原案を書くこと)を担当したため、隋そして唐の初期には強力な権限を持ち、実質的な宰相であった。
※宰相
現代の日本で言えば総理大臣のこと。
現代の日本と違い昔の中国では宰相が複数いることがある。




