表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

57/139

隋紀七 大業13(617)年 (11)

 やがて東都(とうと)劉長恭(りゅうちょうきょう)等が率いる)の(ずい)軍が()ずやって来て、隋軍の兵士達はまだ朝食を()っていなかったが、劉長恭等は兵士達を駆り立てて洛水(らくすい)を渡り、石子河(せきしが)の西に陣を布き、陣の長さは南北十里(隋唐(ずいとう)の1里は531m)余りであった。


 一方の李密(りみつ)翟譲(たくじょう)は勇士を選び、それらを分けて十隊とし、その内四隊を横嶺(おうれい)の下に(ひそ)ませて裴仁基(はいじんき)を待ち受けさせ、残りの六隊は石子河の東に布陣(ふじん)した。


 そこで劉長恭等は李密の兵が少ないと見るや彼等を軽視(けいし)した。


 そして翟譲が先ず隋軍と戦い、形勢(けいせい)が不利になったので、李密は配下の兵を率いて隋軍の側面(そくめん)()いた。


 そうすると朝食を摂っていなかった隋兵は腹が減り弱っていたため、それにより隋軍は大敗したが、劉長恭等は甲冑(かっちゅう)を脱ぎ捨ててこっそりと逃げ、なんとか命は落とさずに済み、駆けて東都に帰還できたのだが、その一方で隋兵の戦死者は十分の五、六に及んだ。


 けれども越王(えつおう)楊侗(ようとう)は劉長恭等の罪を(ゆる)し、その上彼らを慰撫(いぶ)(慰めいたわること)した。


 そして李密と翟譲は残らず隋軍の物資や武器・甲冑を集め、東都の隋軍に勝利したことにより、彼らの威光(いこう)と名声は大いに(とどろ)いた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ