隋紀七 大業13(617)年 (11)
やがて東都(劉長恭等が率いる)の隋軍が先ずやって来て、隋軍の兵士達はまだ朝食を摂っていなかったが、劉長恭等は兵士達を駆り立てて洛水を渡り、石子河の西に陣を布き、陣の長さは南北十里(隋唐の1里は531m)余りであった。
一方の李密と翟譲は勇士を選び、それらを分けて十隊とし、その内四隊を横嶺の下に潜ませて裴仁基を待ち受けさせ、残りの六隊は石子河の東に布陣した。
そこで劉長恭等は李密の兵が少ないと見るや彼等を軽視した。
そして翟譲が先ず隋軍と戦い、形勢が不利になったので、李密は配下の兵を率いて隋軍の側面を衝いた。
そうすると朝食を摂っていなかった隋兵は腹が減り弱っていたため、それにより隋軍は大敗したが、劉長恭等は甲冑を脱ぎ捨ててこっそりと逃げ、なんとか命は落とさずに済み、駆けて東都に帰還できたのだが、その一方で隋兵の戦死者は十分の五、六に及んだ。
けれども越王・楊侗は劉長恭等の罪を赦し、その上彼らを慰撫(慰めいたわること)した。
そして李密と翟譲は残らず隋軍の物資や武器・甲冑を集め、東都の隋軍に勝利したことにより、彼らの威光と名声は大いに轟いた。