隋紀七 大業13(617)年 (10)
東都の留守を預かる越王・楊侗は虎賁郎将の劉長恭、光禄少卿の房崱を派遣し、步兵、騎兵(合わせて)ニ万五千を率いて李密を討伐させた。
時に東都の人々は皆李密軍の行為に対して、飢えた賊が食糧を盗んだに過ぎないと思っており、烏合の衆(統制がとれない寄せ集めの集団)であるから撃破する事は容易だと、競って政府の呼びかけに応じ、国子、太学、四門の三館の学生および貴族・高官の子弟は皆従軍し、彼等の武器は整備され、軍装は美しく華麗で、旗や鉦・軍鼓の有り様はとても壮大であった。
そして劉長恭等は李密軍の前面に展開し、河南討捕大使である裴仁基等にはその配下の軍を率い、汜水から西に進軍してその後方を不意打ちさせ、2月11日に洛口倉城の南で合流する事を決定したが、李密と翟譲は詳細にその計略の情報をつかんだ。
訳者注
※ 劉長恭は(中略)2月11日に洛口倉城の南で合流する事を決定したという記述について。
李密等が洛口倉を襲撃して攻め落とし、倉を開いて民(人々)に食糧を取りたいだけ取らせたという時期(日付)は、『隋書』「李密伝」および『旧唐書』「李密伝」において、大業十三年春(『旧唐書』「李密伝」では劉長恭を負かした後、二月に入って李密が魏公に即位したと記述されているので、大業十三年「春」は大業十三年「一月」であると思われる)としか記述されていないため、『隋書』および『旧唐書』「李密伝」に従うならば、先述した(倉を開いて食糧を取らせた)事を李密等が成し遂げるプラス、劉長恭等が討伐軍を編成して李密等のもとに進軍するには、『資治通鑑』の2月9日に洛口倉を陥落させたおよび、それを受けて劉長恭等が2月11日に洛口倉(城)の南で合流する事を決定したという記述は、時間的に無理があると思われる。