隋紀七 大業13(617)年 (9)
朝散大夫の時徳叡は(穎川郡の)尉氏県ごと李密の呼びかけに応じ、前の(東平郡)宿城県令の祖君彦は、(涿郡の)昌平県から李密のもとに行って彼に帰順した。
祖君彦は北斉の宰相であった「祖珽」の子であり、博学にして記憶力に優れ、詩文の才能が有って、文章の構想をまとめるのが速く、天下に名が知れ渡っており、吏部侍郎(人事を司る吏部の次官)であった薛道衡は、かつて彼を文帝(煬帝の父)に推薦したが、文帝は言った。
「こやつは斛律光(北斉の名将)を歌によって殺した者の子か?朕はこのような者を必要としない!」と。
やがて煬帝が即位すると、彼は最もその名声を憎み、しきたりに従って祖君彦は東平郡の書佐(文書を処理する下級官僚)に選ばれ、宿城県令代理となった。
けれども祖君彦は己の才を自負していたため、常に悶々として塞ぎ込み乱が起こることを願った。
そして李密も以前からその名声を耳にしていたので、彼を得て大いに喜び、引き立てて賓客(大切な客人)とし、軍中の文書(檄文も含む)は全て彼に処理を任せた。
訳者注
※斛律光を歌によって殺した。
北斉の敵国であった北周の武将韋孝寛が斛律光を陥れるため、スパイを使って北斉の都の鄴で歌を流行らせ、祖君彦の父である「祖珽」がこれを利用して斛律光を謀殺した事。
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参考文献 『北斉書』現代語訳「斛律光伝」「祖珽伝」(勉誠出版)