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隋紀七 大業13(617)年 (8)

 さらに李密(りみつ)は続けて。


 「洛口倉(らくこうそう)への襲撃を東都(とうと)留守(りゅうしゅ)政府が知る頃には、僕等はすでにこれを奪取しており、そこで穀物を放出して困窮(こんきゅう)する民を救済すれば、遠くの者近くの者どちらも僕等に帰順(きじゅん)しないことがあろうか!(帰順しないことはない!)


 そして百万の軍勢(またた)く間に集まり、その威光(いこう)を頼みにしてよく休息を取り、敵の疲労を待てば、例え東都から(ずい)軍がやって来ても、僕等には十分な備えがある。


 さらにその後天下に檄文(げきぶん)(自分の主張を述べて人々に行動を(うなが)す文書)を発して人材を招き、賢者や豪傑(ごうけつ)登用(とうよう)して計略(けいりゃく)に役立て、勇猛果敢(ゆうもうかかん)な者を選んで兵権(へいけん)を授け、(ほろ)ぶべき隋王朝(ずいおうちょう)を消し去り、(たく)将軍の政令(せいれい)発布(はっぷ)すれば、どうしてこれが大業(たいぎょう)(偉大な事業、帝王の事業)でないことがあろうか!」(いや、大業である)と。


 その李密(りみつ)の熱弁に対して翟譲(たくじょう)は答えた。


「これは英雄の計略であり、僕に出来る事ではないが、ただ君の命じるとおり、力を尽くして事に当たる、だがその条件として君が先鋒(せんぽう)となることを求め、僕は殿軍(でんぐん)(最後方の部隊を)を率いる」と。


 そして2月9日、李密と翟譲は精鋭七千人を率い、(河南(かなん)郡の)陽城(ようじょう)を出て北に進軍、方山(ほうざん)を越え、羅口(らこう)から洛口倉(らくこうそう)を襲撃して攻め落とし、倉を開いて民に食糧を取りたいだけ取らせたので、老人が幼い子供を引き連れ、道に行列を作って絶えなかった。

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