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隋紀七 大業13(617)年 (3)
馬邑(郡)太守の王仁恭は多く賄賂を受け取ったが、一方で困窮する民に施して救済する事をしなかった。
ところで馬邑郡に住む劉武周は驍勇(勇ましくて強いこと)にして任俠を好み、鷹揚府校尉であった。
王仁恭は劉武周が馬邑郡の勢力家である事により、大変劉武周と親しくして厚遇し、護衛兵を率いさせ自らの役所を守らせた。
しかし劉武周は王仁恭の侍女と密通したため、その事がバレるのを恐れ、反乱を起こすことを計画し、まず人々に宣言した。
「今民は飢饉に苦しみ、倒れた死体が路上に満ちているのに、王府君(太守の尊称)は官庫(官有の倉庫)を閉じて救済しようとしない、どうしてこれが民の父母である者の本心であろうか!」(これが民の父母である者(王仁恭)の本心である!)と。
これを聞いた人々は皆、王仁恭に対して怒りをあらわにした。




