隋紀七 大業13(617)年 (1)
大業十三(617)年春、正月、右御衛将軍の陳稜は杜伏威を討伐し、杜伏威は軍を率いて彼に抵抗した。
ところが陳稜は砦の門を閉じて戦わなかったので、杜伏威は陳稜に婦人の服を送り、彼を「陳婆」と名づけた。
これに陳稜は怒り出戦したが、杜伏威は奮闘し彼を大破したので、陳稜はただ身一つで逃れた。
そして杜伏威は勝った勢いに乗って(江都郡の)高郵県を攻め落とすと、軍を率い歴陽郡を拠点にし、総管を自称、輔公祏を長史(参謀長)に任命、さらに諸将を分けて派遣し、江淮(淮河と長江の間にある地域)にある郡に属する県へ、降伏するよう通告させた事で、杜伏威の軍が行く先々の城はたちまち降伏、それにより江淮の小さな盗賊は競って杜伏威に帰順した。
杜伏威は常に決死の兵五千人を選んで、これを「上募」と名づけ、これを信任して優遇し、敵に攻撃をしかける時は、いつも上募にまず敵を攻撃させ、戦いが終わると上募の兵を検査して、背中に傷がある兵がいれば、すぐにこれを殺したが、それは上募の兵が後退したことにより、攻撃を受けた事が理由であった。
一方で杜伏威は獲得した物資や金銭を、全て兵士への褒美として用い、兵士で戦死する者がいれば、その兵士の妻や妾を殉死をさせ(後を追い死なせ)て共に埋葬した。
それにより兵士は自ら進んで戦い、杜伏威は向かうところ敵無しであった(非常に強く誰にも負けなかった)