隋紀七 大業12(616)年 (32)
当初、煬帝は高句麗征伐を計画し、武器や物資を皆涿郡(現在の北京を中心とした郡)に蓄え、涿郡は人と物で溢れ、駐屯兵は数万に及んだ。
また臨朔宮(涿郡の中心にあった離宮)は珍貴な宝物が多く、群盗等が競って侵攻・略奪し、留守官で虎賁郎将の趙什住等はそれを防ぐ事が出来ず、ただ虎賁郎将である襄陽の人羅芸は独り出戦し、前後に群盗を破ること大変に多く、羅芸の威光と名声は日に日に重くなったので、趙什住等は密かに彼を嫉んだ。
そこで羅芸は乱を起こそうと企て、まず宣言して自軍の兵士を煽った。
「我等は賊を討伐して度々戦功があり、城中の倉庫に物資は山積し、それを管理する権限は留守の官にある、しかし彼らは倉庫を開き物資を与えて、困窮する民を救おうとしないのに、それでどうやって将兵を励ますことが出来ようか!」と。
その羅芸の激に応じて兵士は皆怒りをあらわにした。
そして羅芸が軍を還すと、涿郡の郡丞は薊城(涿郡の政庁所在地)を出て羅芸を出迎えたが、羅芸は彼を捕らえ、陣列を整えて入城した。
これを趙什住等は恐れ、皆羅芸のもとにやってきて彼の命令に従い、そこで羅芸は倉庫の物資を放出して兵士に与え、食糧庫を開いて困窮する民を救済し、涿郡内の者は皆羅芸に帰服したが、彼は自分に同調しない渤海太守の唐禕等数人を殺し、羅芸の威光は燕の地に響き渡り、柳城郡、懐遠鎮に至るまでの地域が共に羅芸へ帰順した。
そして羅芸は柳城太守の楊林甫を左遷した上、柳城郡を改めて営州とし、襄平太守の鄧暠を営州総管に任命して、羅芸は幽州(涿郡改め幽州)総管を自称した。
訳者注
※ 羅芸の本貫(本籍地)は襄陽、羅芸が雲陽の人というのは資治通鑑の誤り。




