表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

45/139

隋紀七 大業12(616)年 (32)

 当初、煬帝(ようだい)高句麗(こうくり)征伐(せいばつ)を計画し、武器や物資を皆涿郡(たくぐん)(現在の北京を中心とした郡)に蓄え、涿郡は人と物で(あふ)れ、駐屯兵は数万に及んだ。


 また臨朔宮りんさくきゅう(涿郡の中心にあった離宮(りきゅう))は珍貴(ちんき)宝物(ほうもつ)が多く、群盗(ぐんとう)()が競って侵攻・略奪し、留守官(りゅうしゅかん)虎賁郎将(こほんろうしょう)趙什住ちょうじゅうじゅう等はそれを防ぐ事が出来ず、ただ虎賁郎将である襄陽(じょうよう)の人羅芸(らげい)は独り出戦し、前後に群盗を破ること大変に多く、羅芸の威光(いこう)と名声は日に日に重くなったので、趙什住等は密かに彼を(ねた)んだ。


 そこで羅芸は乱を起こそうと企て、まず宣言して自軍の兵士を(あお)った。


「我等は賊を討伐して度々戦功があり、城中の倉庫に物資は山積(さんせき)し、それを管理する権限は留守(りゅうしゅ)の官にある、しかし彼らは倉庫を開き物資を与えて、困窮(こんきゅう)する民を救おうとしないのに、それでどうやって将兵を励ますことが出来ようか!」と。


 その羅芸の(げき)に応じて兵士は皆怒りをあらわにした。


 そして羅芸(らげい)が軍を還すと、涿郡(たくぐん)郡丞(ぐんじょう)薊城(けいじょう)(涿郡の政庁(せいちょう)所在地)を出て羅芸を出迎えたが、羅芸は彼を捕らえ、陣列(じんれつ)を整えて入城した。


 これを趙什住(ちょうじゅうじゅう)等は恐れ、皆羅芸のもとにやってきて彼の命令に従い、そこで羅芸は倉庫の物資を放出して兵士に与え、食糧庫を開いて困窮する民を救済し、涿郡内の者は皆羅芸に帰服(きふく)したが、彼は自分に同調(どうちょう)しない渤海(ぼっかい)太守(たいしゅ)唐禕(とうい)()数人を殺し、羅芸の威光(いこう)(えん)の地に(ひび)き渡り、柳城郡(りゅうじょうぐん)懐遠鎮(かいえんちん)に至るまでの地域が共に羅芸へ帰順(きじゅん)した。


 そして羅芸は柳城太守の楊林甫(ようりんほ)左遷(させん)した上、柳城郡を改めて営州(えいしゅう)とし、襄平(じょうへい)太守の鄧暠(とうこう)を営州総管(そうかん)に任命して、羅芸は幽州(ゆうしゅう)(涿郡改め幽州)総管を自称した。


訳者注


羅芸(らげい)本貫(ほんがん)(本籍地)は襄陽(じょうよう)、羅芸が雲陽(うんよう)の人というのは資治通鑑(しじつがん)の誤り。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ