隋紀七 大業12(616)年 (30)
やがて煬帝は江都に至り、江、淮(主に現在の江蘇省の中部・南部一帯)の官吏で煬帝に謁見する者は、主に献上品の多少が評価の基準とされ、献上品が多ければ群丞(郡太守の補佐官)、群太守(郡の長官)に特進し、少なければ大半は停職または免職された。
江都郡の郡丞である王世充は、銅鏡と屏風を献上して江都郡の通守(郡での位は郡太守に次ぐ)に昇進し、歴陽郡の郡丞である趙元楷は珍味を献上し、江都郡の郡丞に栄転(小郡の郡丞から大きい郡の郡丞に転任)した。
これにより郡県の役人は競って民から搾取する事に励み、それによって煬帝への献上品を補完した。
その結果、民は外から群盗に略奪を受け、内は郡県の役人に重税を課されて、生計を立てる手段が残っておらず、これに加えて飢饉のため食べる物が無く、そこで民は初め木の皮や葉を採り、あるいは藁をついて粉末にし、あるいは土を煮てそれらを食べ耐え忍ぼうとしたが、ついに口に入れられる物が全て尽きてしまい、やがて共食いをする状況に追い込まれた、しかしその一方で官庫(官有の倉庫)の食糧はまだ豊富であったのに、役人は皆厳格な法を恐れたため、思い切って官庫から食糧を出し、飢えた民を救助しなかった。
ところで王世充は密かに煬帝のため、江淮(淮河と長江の間の地域、現在の江蘇省中部)に在住する民間の美女を選んで彼女等を献上し、このことによって益々煬帝に寵愛された(可愛がられた)




