隋紀七 大業12(616)年 (29)
治書侍御史の韋雲起は虞世基と裴蘊を弾劾(罪を上奏)した。
「虞侍郎(虞世基の官職は内史侍郎)及び裴大夫(裴蘊の官職は御史大夫)は、職務として国家の重要な機密を管轄しており、朝廷の内外の政務を掌握しておりますが、全国各地から反乱の報告がございましても、その事をごまかすため陛下のお耳には入れておりませぬ(上奏しておりませぬ)
むしろ虞侍郎及び裴大夫の偽りとは逆に、賊(群盗)の数は実に多いのですが、彼らは各地からの報告を握りつぶして賊は少ないと言い、陛下は彼らから賊は少ないとお聞きになっているため、賊を討伐するための援軍を多く出されず、それゆえ賊軍と官軍(隋軍)の兵力差は大きくなり、官軍は出征して賊軍に勝つ事ができず、却って官軍を敗北に追い込み、賊軍は日に日に数を増しております。ゆえに私は彼ら二人を役人に引き渡し、その罪を裁くことを陛下に求めます」と。
それに対し大理卿の鄭善果は上奏した。
「韋御史(韋雲起の官職は治書侍御史)は賢臣を誹謗し、述べていることは事実でない上、朝廷の政事(政治)を誹謗し、みだり(無思慮)に権勢を振るっています」と。
そこで煬帝は鄭善果の上奏を受け入れ、韋雲起を左遷して大理司直とした。
訳者注
※古代の中国では皇帝や両親以外が名(諱→ファーストネーム)を呼ぶ事は無礼にあたるため、官職についている場合は虞侍郎、裴大夫のように姓+官職名で呼ぶ。
三国志で例えると豫州牧であった時の劉備は劉豫州と呼ぶなど。




