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隋紀七 大業12(616)年 (24)
涿郡の通守である郭絢は兵一万人余りを率いて高士達の討伐に着手した。
一方の高士達は自らの才智が竇建德に及ばないと考え、そこで竇建德を登用して軍司馬とし、全ての兵権を彼に授けた。
そこで竇建德は高士達に要請して補給物資を守らせ、自ら精兵七千人を選んで郭絢の攻撃を防ぎ、わざと高士達との間に亀裂が生じて背いたように見せかけ、使者を派遣して降伏を郭絢に申し込んだ、願わくば先駆けとなり、高士達を攻撃して敗北させることに貢献し、今まで犯した罪を償いたいと。
お人好しにも郭絢はこれを信じ、兵を率いて竇建德の先導に従い(平原郡の)長河県に至ったが、竇建徳を全く警戒していなかった。
その油断に乗じて竇建德は郭絢に襲いかかり、彼の兵数千人を殺しまたは捕らえ、郭絢の首を斬って高士達に献上し、この事によって張金称の残党は全て竇建德に帰順した。