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隋紀七 大業12(616)年 (23)

 煬帝(ようだい)太僕卿(たいぼくけい)楊義臣(ようぎしん)を派遣して張金称(ちょうきんしょう)を討伐させ、張金称が(武安(ぶあん)郡の)平恩(へいおん)県の東北に陣を布くと、楊義臣は軍を率いて直ちに(清河(せいが)郡の)臨清(りんせい)県の西に至って、永済渠(えいさいきょ)の近くに砦を作り、それは張金称の陣から離れること四十里(隋唐の一里は531m)で、堀を深く壁は高くし、守りを固めて張金称と戦わなかった。


 そして張金称が毎日軍を率いて楊義臣の砦の西に至ると、楊義臣は兵に出戦の支度をさせて自らは甲冑を身にまとい、張金称と戦うことを約束したが、依然(いぜん)として砦から出撃しなかった。


 そして日が暮れる頃に張金称は自陣に還り、翌朝再び楊義臣の砦の(そば)にやって来たが、楊義臣は戦わず、このような状態が一月余り続いたけれども、楊義臣はついに出撃しなかった。


 それを張金称は楊義臣の臆病によるものと考え、幾度も楊義臣の砦に迫って彼を罵った。


 楊義臣はそこで張金称に言った。


「汝は明朝(みょうちょう)再び来るがよい、我は必ず戦う」と。


 そしてこれまでの経緯から張金称は楊義臣を見くびり、彼に対する備えをおろそかにした。


 そこでその慢心につけこもうと思い、楊義臣は精鋭な騎兵二千を選び、夜になるのを待って(武陽(ぶよう)郡の)館陶(かんとう)県から永済渠を渡り、張金称が自陣から離れたことを偵察して確認すると、即座に陣へ進入し張金称軍の家族を攻撃した。


 張金称はこの事を聞くと、兵を率いとって返したが、楊義臣は後ろからこれを襲ったため、張金称は大敗し、彼は側近と共に清河郡の東に逃げ延びた。


 それから一月余り後、楊善会(ようぜんかい)は張金称を討って(とりこ)にした。


 そして役人は市に柱を立てて、張金称の首を吊るし、彼の手足を広げて,張金称を仇としている者に彼の肉を()いて食らわせ、張金称が死に至るまで、彼に対する野次は止まらなかった(張金称は虐殺や略奪を行なったため民から恨まれていた)


 やがて煬帝は(みことのり)を下し、張金称を滅ぼした功績により楊善会を清河郡の通守(つうしゅ)に任命した。



訳者注


永済渠(えいさいきょ)


煬帝が開いた大運河の一つ、黄河と涿郡(たくぐん)(郡の中心は現在の北京)を結ぶ。

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