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隋紀七 大業12(616)年 (20)
鄱陽郡の賊の頭目である操師乞は元興王と自称、始興と年号を建て、豫章郡を攻略して、自分と同郷の林士弘を大将軍に任命した。
そこで煬帝は治書侍御史の劉子翊に詔を下し、兵を率いて操師乞を討伐させた。
そんな中操師乞は流れ矢に当たって戦死したため、林士弘は操師乞に代わってその軍を率い、劉子翊と彭蠡湖において戦い、劉子翊は敗死した。
そして林士弘の軍は大いに勢いを増し、その兵力は十万人余りに至った。
12月10日、林士弘は皇帝を自称、国号を楚と定め、太平と年号を建て、そのような状況で九江、臨川、南康、宜春等の郡を奪取すると、周辺の豪傑は競って隋の太守(郡の長官)や県令(県の長官)を殺し、郡県ごと林士弘に呼応した。
その結果、北は九江郡(現江西省九江市)から、南は番禺(南海郡南海県、現広東省広州市)に至るまでの地域が、全て林士弘の支配下に置かれた。




