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隋紀七 大業12(616)年 (19)-隙間風-
翟讓はここに至って李密に彼の部隊を創設させて、自分の軍とは別に部隊を統率させ、蒲山公営と号した。
李密の部隊は軍紀が厳正で、常日頃から兵士に号令をかけて、真夏であっても、兵士達は皆霜や雪を背負うかのようであった。
さらに李密の生活は質素で、獲得した財宝は、全て部下に褒美として与え、これによって配下の者たちは李密のために力を尽くした。
ところで李密の部隊に属する兵士の多くは、翟讓の兵士達に侮辱を受けたのだが、軍紀が厳正であったため、敢えて報復しなかった。
そして翟讓は李密に言った。
「今物資は大体足りており、このような状況であれば私は瓦崗寨に帰りたいと思う、蒲山公(李密)がもし共に行かないのであれば、ただ蒲山公の思った通りにしてくれ、讓はこれより公とは別れることとする」と。
そこで翟讓は物資を保持して東に向かい、李密もまた西に進んで康城に至り、説得していくつかの城を降伏させ、大いに物資を獲得した。
しかしなんと翟讓は李密と別れた事をすぐに悔やみ、再び軍を率い李密のもとにやってきて彼に従った。




