隋紀七 大業12(616)年 (18)-大海寺の戦い-
滎陽郡の太守(郡の長官)・郇王楊慶は楊弘(煬帝の父・文帝のはとこ)の子である。
ところで楊慶は滎陽郡に侵攻する翟譲を討つことができず、煬帝は張須陀を滎陽郡に転任させて滎陽郡の通守(郡においての位は太守に次ぐ)とし、翟譲を討伐させた。
10月27日、張須陀は軍を率いて翟譲を攻撃し、翟讓は以前から度々張須陁に敗北していたので、彼がやって来ると聞いて大いに恐れ、なんとかして張須陀を避けようとした。
そこで李密が言った。
「張須陀は勇はあるが計略は無く、彼の軍はまた度々勝利して、その兵はすでに傲りかつ凶悪であるから、一戦して張須陁を擒にすべきである。翟将軍はただ陣を並べ隋軍を待て、密は将軍のために張須陀を破ることを約束する」と。
そのため翟讓はやむを得ず、軍を率いて戦うことを決めたので、李密は兵千人余りを分けて、大海寺の北の林間(林の中)に伏せた。
けれども張須陀は元々翟譲を軽んじていたので、方陣(四角い陣形)を形作って前進し、翟譲と戦い、翟譲は敗れて退いたため、張須陀はそれに乗じて、逃げる翟譲を追撃すること十里余り、そこで李密は伏兵を発して張須陀を襲い、張須陀の軍は崩れた。
そこに李密と翟讓および徐世勣、王伯当が軍を集結して張須陀を包囲、張須陀は包囲を突破したが、側近の武将の全ては脱出しきれず、張須陀は跳ぶように馬で駆けて、再び包囲の輪に突入して彼らを救い、そのために敵中との往復を繰り返し、やがて戦死を遂げた。
そして張須陀が統率していた兵士達は彼の死を悲しんで昼夜泣き崩れ、それは数日に渡って止まず、河南の郡県の人々はこのために意気消沈してしまった。
さらに鷹揚郎将で河東の人賈務本は張須陀の副将であったが、彼もまた戦傷を負い、張須陀軍の残存兵五千人余りを率いて梁郡に走り、賈務本も張須陀の後を追うようにこの世を去った。
そこで煬帝は詔を下して光禄大夫の裴仁基を河南道討捕大使とし、張須陀に代わってその軍(河南討捕軍)を統率させ、河南討捕軍の拠点を移して虎牢に駐屯させた。




