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隋紀七 大業12(616)年 (16)
以前(梁群に属する)宋城の県尉(県の治安担当者)であった、斉郡の人房彦藻は、己の才に自負があり、時に政府から登用されないことを恨んで、楊玄感の反乱計画に加わり、反乱の失敗後姓名を変えて逃亡、李密と梁郡(現在の河南省商丘市一帯)で出会い、そのことがきっかけとなって李密と共に漢水の流域を周遊し、あちこちの群盗を訪ね、群盗の中にいる豪傑を説得し、李密や房彦藻が漢水の流域から帰って(東郡にある 瓦崗寨にやって)来た時、彼らに從う者は数百人いたのだが、李密や房彦藻は変わることなく客人扱いされ、翟讓の陣中に滞在した。
けれども翟譲は李密に豪傑が帰服する様子を見て、彼の計略を採用したいと思ったが、ためらってなお決断できなかった。
訳者注
※李密と房彦藻が翟譲に接触し始めた頃、翟譲は彼らを敬遠していたので、李密や房彦藻が瓦岡寨に入ってもしばらく客人待遇であった。