隋紀七 大業12(616)年 (14)
やがて李密は群盗の頭目を観察して翟讓が最強と判断し、そこで王伯当を通じ翟譲に連絡を取って彼を引見し、翟讓のために計略を立て、諸々の小規模な群盗のもとに行って彼らを説得し、これらを全て翟譲に帰順させた。
これに翟讓は喜び、次第に李密と親密になって、彼と大事を計り、李密はその中で翟譲に勧めた。
「漢の高祖(劉邦)や西楚の覇王(項羽)は皆布衣(平民)から身を起こして帝王となった。
今皇帝は上にあって愚かで、民は下にあって皇帝を恨み、精兵は遼東(高句麗)において全滅、突厥との和親は絶え、皇帝はついに江都へ巡遊し、東都を捨てた。
これはまた漢の高祖や西楚の覇王のような英雄が奮起する機会である。
そして足下(同等またはそれ以下の相手に用いる敬称)の傑出した才知と遠大な計略によれば、兵士達は精鋭となり、二京(東都と西京)を席巻し、暴君を成敗して、隋を滅ぼす事が出来る!」と。
だがそれに対し翟讓は遠慮して言った。
「我らは群盗であり、朝夕草深い田舎で成り行き任せに生きているだけであるから、君の言っている事は、私が思いもよらない事だ」と。
訳者注
※ 漢の高祖
劉邦、漢王朝初代皇帝。始皇帝の死後に起きた農民反乱、陳勝・呉広の乱に乗じて反乱を起こす。
その後楚軍に加わって関中(咸陽)に一番乗りを果たし、最後の秦王・子嬰の降伏を受けた。
秦打倒後項羽の戦後処理によって、追いやられた漢中から挙兵して彼と数年間天下を争い(楚漢戦争)、最終的には項羽を倒して皇帝となり、前後合わせて四百年続く漢王朝を打ち建てた。
※西楚の覇王
項羽、上記の劉邦と同じように陳勝・呉広の乱に乗じて会稽郡で、叔父の項梁と共に秦に対して反乱を起こし、項梁の戦死後は反秦連合軍の中心となり、秦を滅ぼして一時的に天下を握り「西楚の覇王」を名乗った。
劉邦との間に起きた楚漢戦争では、彭城(睢水)の戦いで五十六万の劉邦連合軍を三万で破るなど劉邦を追い詰めたが、劉邦の用いた有能な人材の力によって戦局が段々と変わっていった結果、最後は垓下において敗北し、漢軍の追跡を受けている最中に自刃した。
※李密は項羽のことを布衣(平民)出身と言っているが、実際は楚の名門出身である。




