隋紀七 大業12(616)年 (12)-瓦崗寨-
そして翟讓は黄君漢に二度拝礼して言った。
「讓があなたから再生の恩を受けたのはまさしく幸いでありますが、黄曹主は今後どうなさるのですか!」と。
そして翟譲はその事を思い涙を流した。
すると黄君漢は怒って言った。
「私は元々公を大丈夫(立派な男子)であると思い、民衆の命を救う事が出来ると考え、故に自らの死を顧みず公を牢獄から救出したのだ、それなのになぜ私の思いとは裏腹に、公は児女子のように涙を流して私に感謝するのか!公はただ努力し、自身で災いから逃れよ、私の事を心配する必要はない!」と。
そこで翟讓は遂に逃亡し瓦崗寨において群盗となり、そして翟譲と同郡(東郡)の単雄信は、勇猛で力強く、巧みに馬槊(馬上で使用する長矛)を扱い、少年を集めて翟譲のもとに行き彼の陣営に加わった。
離狐の人徐世勣は衛南に実家があって、年は十七、勇敢さと智謀を備えており、そんな彼が翟譲にある提案をした。
「東郡は公と世勣にとって全域が郷里であり、郡の人の多くは顔見知りなため、軍を展開して略奪をするべきではありません。しかし滎陽郡と、梁郡の汴河が流れているところで、航行中の船から金品を奪い、商人や旅人から物資を強奪すれば、それによって我々の活動に必要な財貨を集めるのに十分です」と。
翟譲はこの提案をその通りだと考え、軍を率いて滎陽、梁二郡の境界に進み、汴河を航行する公私の船から金品を奪ったことにより、金銭と物資が豊富になって、翟譲の配下になる者は益々多くなり、瓦崗寨に人が集まった結果、軍勢は一万余りになった。
訳者注
※ 離狐(県)も衛南(県)も東郡に属する。
※中国では歴史的に本籍地(本貫)が重視されるため、(歴史上の)人物の経歴を〜の人と本籍地を挙げて説明する。
徐世勣を離狐の人というのはそのためである。