隋紀七 大業12(616)年 (10)-逃李の子-
隋に対して反乱を起こした楊玄感の軍師であった李密は、反乱の失敗後護送されている途中に隋兵の手から逃れると、群盗である郝孝德のもとに身を寄せたが、郝孝德は李密を礼遇しなかったため、さらに王薄のもとに身を寄せたが、しかし王薄も李密を非凡な人物として待遇しなかった。
そして李密は困窮し、樹皮を削ってそれを食べる状態にまで至ったが、やがて淮陽郡のとある村の家に身を隠し、姓名を変え、生徒を集めて学問を教えた。
しかし郡県の官吏はこれを怪しいと思い、李密を捕らえようとしたので、李密は逃走し、妹の夫で梁郡の雍丘県令である丘君明のもとに到った。
けれども丘君明は敢えて李密を自分の家に留めず、李密の身を移して遊俠である王秀才の家に匿わせ、そして王秀才は自らの娘を李密と結婚させた。
ところが丘君明の従兄弟の子である丘懐義は李密の事を役所に密告したので、煬帝は丘懐義に勅命を下し勅書を持って行かせて、梁郡の通守楊汪に勅書を賜い、楊汪に李密等を捕らえさせようとした。
そして楊汪は兵を遣わして王秀才の家を包囲したが、ちょうどその時李密は外出していたので、それにより捕らわれる事を免れた、しかし丘君明や王秀才は皆誅殺された。