隋紀七 大業12(616)年 (8)-江都蒙塵-下
7月14日、馮翊郡の孫華は挙兵して群盗となった。
虞世基は各地に群盗が充満にしている事により、煬帝に出兵して洛口倉に軍を駐屯させる事を求めたが、煬帝は言った。
「卿は書生だ、ゆえに相も変わらず臆病なのだろう」と。
7月14日、煬帝の車駕(馬車)は鞏県に至った。
そして役人に勅命を下して箕山、公路の二府を洛口倉内に移し、さらに洛口倉の周囲に城壁を築かせ、それにより不測の事態に備えた。
煬帝が汜水に至ると、奉信郎の王愛仁もまた上表して、煬帝が西京に還る事を求めたが、煬帝は王愛仁を斬って再び先に進んだ。
煬帝が梁郡に至ると、郡の者が煬帝の車駕を足止めして上書した。
「陛下がもしこのまま江都に行幸なされるならば、天下は陛下の有するところではなくなります!」と。
そして煬帝はまた上書した者を斬った。
ところでこの時李子通は海陵に拠り、左才相は淮北(淮河以北の地域)で略奪を行ない、杜伏威は六合に陣を構え、そしてこれらの群盗は軍勢各々数万を擁しており、そこで煬帝は光禄大夫の陳稜を派遣し、宿衛の精兵八千を率いてこれらの群盗を討伐させ、陳稜は度々群盗に対して勝利を収めた。




