隋紀七 大業12(616)年 (7)-江都蒙塵-上
秋、7月8日、済景公の樊子蓋が死去した。
ところで煬帝が江都で新しく造らせていた龍舟が完成し、それが東都に送られてくると、宇文述は煬帝に江都へ行幸する事を勧めたが、右候衛大将軍の酒泉の趙才が煬帝を諫めた。
「現在万民は疲労し、国庫は空虚で、盗賊が蜂起し、法令に効力がございません、ゆえに願わくば陛下は京師に還られ、万民を安んじられますよう」と。
しかしこれに対して煬帝は大いに怒り、趙才を捕らえて官吏に処分を下す事を司る役人に引き渡し、十日経って煬帝の怒りが収まったため、それにより趙才を釈放した。
そして朝廷の臣下は皆、江都に行くことを望まなかったが、煬帝の決意が大変固かったので、敢えて諫める者はいなかった。
ところが建節尉の任宗は上書して強く煬帝を諫めたため、煬帝は諫言を受けたその日、朝堂において任宗を杖で打ち殺した。
7月10日、煬帝は江都に行幸するにあたり、越王の楊侗に命じ、光禄大夫の段達、太府卿の元文都、検校民部尚書の韋津、右武衛将軍の皇甫無逸、右司郎の盧楚等と共に、自分が不在となる東都の政務を総括させた。
ところで韋津は韋孝寬(北魏末から北周にかけて活躍した名将)の子である。
そして煬帝は詩を送って宮女に離別の記念として残し思いを伝えた。
「我は江都の好き夢を見る、征遼(遼東征伐)もただ偶然にすぎない」と。
一方奉信郎の崔民象は群盗が天下に充満している事を取り上げ、建国門において上表して煬帝を諫めたが、煬帝はそれに対して大いに怒り、まず崔民象の顎を刀で抉って、その後彼の首を斬った。