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隋紀六 大業11(615)年 (16)
城父の朱粲は初め県の佐史(下級役人)となり、その後從軍したが、結局逃亡し多くの者を集めて群盗となり、これを「可達寒賊」と言い、自ら迦楼羅王と称し、軍勢は十万余りに至り、軍を率いて南郡、沔陽郡および山南(終南山の南)の郡県を転戦しながら略奪し、朱粲の軍が通過した所で生きている人間は残っていなかった。
12月22日、煬帝は詔を下して、民部尚書・樊子蓋に関中の兵数万を徴発させ、絳郡の群盗・敬盤陀等を攻撃させた。
ところが樊子蓋は善悪を分けず、汾水より北の村を全て焼き払い、賊で投降する者があれば、皆生き埋めにしたので、民衆は恨んで憤り、益々集まって群盗となった。
そこで煬帝は詔を下し李淵を用いて樊子蓋と代えた。
そして投降する者があれば、李淵は彼らを招いて側に置いたので、これにより賊兵の多くが投降し、その数は前後数万人に上り、残党は散って他郡に入った。




