隋紀六 大業11(615)年 (15)
10月13日、盧明月は軍勢十万を率いて淮陽郡、襄城郡に侵攻した。
話は変わって東海郡の李子通は勇気と能力があり、まず長白山の賊の頭目である左才相のもとに身を寄せたが、群盗は皆残忍であり、ただ李子通一人だけ寛大で思いやりがあったので、それによって人は多く彼に帰服し、半年も経っていないのに、李子通は軍勢一万を擁した。
ところがこれを見た左才相は李子通を妬んで嫌ったので、李子通は左才相のもとから離れて、淮河を渡り、杜伏威と合流した。
杜伏威は軍中の壮士(勇士)を選び養って仮子(養子、義子)とし、それの合計は三十人余り、そして済陰郡の王雄誕、(斉郡)臨済の闞稜はその中で最も優れていた。
けれども合流して間もなく李子通は杜伏威を殺すことを謀り、兵を派遣して杜伏威を襲った。
そして杜伏威が重傷を負って落馬したため、王雄誕が杜伏威を背負って葦の群れの中に逃げ込み、散り散りになった兵を集めて再び勢力を盛り返した。
また隋の将軍・来整が杜伏威を攻撃して破ったが、杜伏威の将・西門君儀の妻・王氏は、勇敢にして力が強かったため、杜伏威を背負って逃げ、また王雄誕が壮士十人余りを率いて杜伏威を守り、隋兵に対して奮戦したので、これによって杜伏威は脱出することが出来た。
来整はさらに李子通を攻撃して破ったが、李子通はその残党を率いて海陵に逃走し、再び兵を集めて二万人を得、自ら将軍と称した。