隋紀六 大業11(615)年 (14)
初め、蕭瑀は外戚(皇后・妃および皇太后の一族のこと)であるが、能力と徳行が有ることにより、かつて皇太子時代の煬帝に東宮(皇太子が居住する場所)において仕え、昇進を重ねて官職は内史侍郎(内史省の次官)に至り、そして煬帝が蕭瑀に委ねたのは重要な機密を司ることであった。
ところが蕭瑀の性質は剛直で、しばしば諫言して煬帝の意向に逆らったため、煬帝は次第に蕭瑀を煙たがるようになった。
時を戻して雁門城の包囲が解かれるに及び、煬帝は群臣に言った。
「突厥が身の程を知らず、道理に背いているとはいえ、奴等に何が出来るというのか!(どうすることも出来まい)まして突厥がすぐに退却しないのを見ると、蕭瑀は突然恐れおののいて騒ぎ立てた、状況的にこれを許すべきではない!(許すことはできない)」と。
そこで彼を中央から出して河池郡の太守(長官)とし、その日のうちに蕭瑀を河池郡に向かわせた。
ところで候衛将軍・楊子崇は煬帝に従って汾陽宮におり、突厥が必ず侵攻してくることを知り、しばしば煬帝に早く京師(都、大興城)に帰ることを求めたが、それに対し煬帝は怒って言った。
「子崇は臆病であり、皆の心を驚き怯えさせる、よって侍従(皇帝のそばに仕える)の官にいるべきではない」と。
そして彼もまた中央から出して、離石郡の太守とした。
楊子崇は文帝(楊堅)の族弟(同族の同世代の年少者)である。
話は変わって楊玄感の反乱の時、龍舟(皇帝の御座船)・水殿(皇帝の遊覧船)は皆焼かれてしまったが、詔(皇帝が発する文書による命令)を下して、江都(現在の江蘇省揚州市)で再び建造させ、その数凡そ数千隻、船の規模は前の物と比べて一段と大きかった。