隋紀六 大業11(615)年 (13)
ところで蘇威は雁門城防衛時に煬帝が約束した事を議題に挙げ、「功労によって官位を与える事はとても重要であるから、その事を考慮すべきである」と言い、樊子蓋も同じ事を再三求め、「信を失うべきではない」と進言した。
それに対して煬帝は言った。
「公は人心を集める事を欲するか!」と。
その言に樊子蓋は恐れ、敢えて答えなかった。
煬帝の性質は官位や褒美を与えることに対してケチであり、初め楊玄感の反乱を平定した時、官位を授けるべき者が多かったので、そこでさらに武官の職を置き、建節尉を正六品とし、建節尉より下の武官の職である、奮武(従六品)、宣恵(正七品)、綏徳(従七品)、懐仁(正八品)、秉義(従ハ品)、奉誠(正九品)、立信(従九品)等の尉は、前から順に一つずつ品級を下げた(建節尉より品級が一つ下の武官の職が奮武(尉)であり、そこから順に一つずつ品級が下がって行く)
そして将兵で雁門城を守った者は一万七千人いたが,官位を授けられた者はわずか千五百人、さらに官位を授けるに当たっては、皆楊玄感の反乱を平げた時に授けた官位を基準とし(煬帝は雁門城の防衛時に、城を守って功有る者で、無官の者は直ちに六品の官を授けると言っていた)、そして一戦目に第一の功績を挙げた者は一つ官位を上げたが、しかし雁門城防衛戦より前に武官の職に無かった者はただ(最下位の従九品の)立信尉を授けられただけで、三戦目に第一の功績を挙げた者は(下から三番目の従八品の)秉義尉に昇進し、雁門城防衛の軍中にあって功績が無かった者は四戦目に(して)一つ官位を上げたが、それ以外の恩賞は無かった。
ところがそのような状況で煬帝がちょうど再び高句麗を討伐する事を主張したので、その事を将兵で憤怒して恨まない者はいなかった。
訳者注
※立信尉は品級がある官職中最下位である(品級は最上位が正一品で最下位が従九品)