紙一重の社会
そこへ向かおうとする時に気持ちが重たくなるのは、私自身の気持ちが揺れるからなのだろう。自分がずっと何十年という間持ち続けてきた感覚と少し違う社会がそこには待っている。心を決めて歩き出すと、そこには確かにちょっと異質な日常が扉を開いている。一歩その中へ入った瞬間から、私はいつもの私ではない誰かを演じ始めている。そして、そんな人格の多重性もその場だからこそ許されているのかもしれない。
私は縁あって週に3日ほど、知的と精神的な障がいを持った人が通って来る施設での非常勤職員として働く機会を得ていた。入ったばかりの頃、先輩の職員から「私はここでは違う自分を演じているのかもしれない」と、施設で働く心構えのようなものを話してもらったことがあった。私にとっても、様々な感情をコントロールして「優しい良い人」を演じる場所なのである。
人数はスタッフを含めて30名ほどだが、そこに集まって来る人のほとんどが、心の中に深い闇を持っているかあるいは深い傷を負っている。症状は様々だが複合している場合もある。
共通していることは、彼らが過去において、何らかの形で一般社会から拒否され押し出された経験を持つということである。その結果なのであろうか、彼らは自分に自信を無くし、あきらめを口にすることも多い。学校で、職場で「いじめ」を受けてきたとそこに集う多数者がはっきりとそう言う。辛い思いをしてきたという無言の気持ちの共有がそこに生まれてくるためだろうか、そこに集うメンバーの多くが他のメンバーに対して優しい心持ちを見せる。でも時には小さないさかいも起きる。そしてそれもまた人らしい姿だと思える。
もう四十年も前のことになるが、私の小学生時代は高度経済成長期であったため、大人は働きづめであったから、子供はほったらかしのような感があったように思う。大人に干渉されない子供同士の小さな社会があちこちに存在していたような気がする。子供自身が、自分で見たもの感じたことを自分なりに判断していたのかもしれない。
大人が発する言葉を耳にしながらも、少しは疑問を感じていたところもあった。例えて言うならば、「○○ちゃんとあんまり遊ぶんじゃない」とかいう言葉に。そこには明らかに大人社会の価値観が持ち込まれようとしていたのだろう。その根底にあったものは、子供には知る由もないそれぞれの家庭の事情であったり、子供自身が抱えている障がいであったのだろうと今は思う。
そんな小学校時代を思い返すとき、後悔と自責の念とともに少なくとも3人の子供の顔が私の心に浮かんでくる。皮膚病の影響で色白で湿疹だらけの男の子と服装がいつも汚れていた女の子は、無言のうちにみんなから距離を置かれていた。そして、小学校にいる間に一度も言葉を発することがなかった男の子は、気難しくて変な子だと思われていた。学校における道徳教育の成果で、表面的には仲良くしていたけれども、他の子供達との関係性を意識する時には、心の中ではそれらの子供達のことを避けたいと思っていたのは確かなことだった。
今のように、障がいのある子供とそうでない子を分けて学校に通わせるほどの余裕が社会全体になかった時代なのだろうから、みんな同じ教室で同じように過ごしていた。それが良かったのかどうなのかということは私には分からないが、様々な事情を抱えた子供達が同じ教室で過ごしていたあの時代も、そんなに悪いものではなかったような気もする。
二十歳の頃、私の気持ちの中では将来の結婚も視野に入れて付き合っていた女性がいた。その人は心の中に、その人だけがのぞき見ることができる深い闇を持っていた。普段は普通の人なのだが、時折その人にしか見えない心の闇をのぞいている時には人格が変わった。ある時、その人は精神病院の閉鎖病棟に期限のない長期入院患者として収容されて、私たちの付き合いは突然に終わった。
その時から私の心の中には、その人の心の中にあったその深い闇を理解してあげられなかったという自責の念が残った。子供時代を振り返る時に感じる自責の念と同じような気持ちが。
長い時間を経て今、私が知的や精神的な障がいを持っている人達と共に過ごす時間を持ち始めたことは必然であるのかもしれない。
この文章を完成させるまでの間に、私自身の本業との兼ね合いもあって、この職場とは少し距離を置くことになった。しかし私自身の心の奥にある、過去に対する後悔と自責の念が消えない限り、私は、今後も何らかの形で障がいを持つ人達とのかかわりを続けていきたいと思っている。一般社会とほんの紙一重の違いしかないのにかかわらず、目に見えない高い壁で隔てられている、少しだけ異質な社会に生きている人達とのかかわりを。