嗤う彼女と水の音
「よし、じゃあこうしよう。」
あくる日の夜の事だった。
寒い、寒い星空の下。普段大人しい先輩が、悪戯っ子のような笑みを浮かべて私に話を持ちかけたのは。
「私と、付き合っちゃおうか!」
はあ、と、ただ一言だけ。
混乱から零れ落ちるその返答の意を是と捉えてしまった彼女が、酷く嬉しそうな笑みを浮かべていたのを今でも強く覚えている。
事の発端は、少し前へと遡る。
私の所属する文芸部には、少しばかり面倒な派閥があった。たかだか14人の集まりでよくもまあそんな下らない争いが出来るものだ、と心底呆れた目でその泥沼を眺めていた私は、誰の味方にも、どころか敵にすらなれずに静観を決め込んでいたのだが、どうにもそれが面白くない連中が居た。
そう、あの忌まわしき高田軍団である。
彼らは当文芸部において最大勢力である6人組のグループで……や、そんな事はどうでもいい。
高校生にもなって未だに身内で鎖国状態、その癖ほかの島にちょっかいをかけに行く幼稚で馬鹿で無能な彼らと私は反りが合わず、そんな彼らと私が関われば険悪なムードが渦巻く事請け合いなのでこちらが気を回して関わらないようにしていたのに、その日、彼らからの嫌がらせが遂行された。
内容は本当に些細なもので、嫌がらせ、と想像すれば誰だって思いつくようなモノだった。こちらとしても無視出来る範囲のもので、寧ろホッとした感情で変わらぬ日々を過ごしていたのだが……それもまた気に入らなかったらしい。
放課後の事だ。
顔を見るだけでも死に至るであろう重度の高田軍団アレルギーを発症した私が療養の為に一刻も早く帰るべく校門へ向かった時、事件は起きた。
「おい」
高田軍団その一の登場だ。この瞬間から彼は立派な人殺しである。
「サボりか?」
失礼な、アレルギーは立派な病気だぞ、無理をさせるのはよくないんだぞ。そんな強い正義感に駆られた私は、「体調が悪くて」とだけ返す。
「その割には顔色がいいじゃないか。高田君が部室で待ってる。来いよ。」
こういう高圧的な態度を取るような不良少年が居ないであろうと踏んだから文芸部に入ったのに、これでは何が何やら分からない。決して怖いわけではなかったが、反論の思いつかなかった私は、渋々と彼に着いて行く事となる。
敢えて言おう、武者震いであると。
「よう、遅かったな。」
ああ、高田軍団その一君との階段での死闘を貴方にも見せたかったよ。捕まった際に掴まれた肩が今でもジンジンと痛む。心底やめとけばよかった。
「用件ってのはな、お前、今からでも遅くねえぞ。俺らの仲間になれ、雑用係くらいにはしてやる。」
よっぽど歪んだ小学生時代を歩んだのだろう、今日日ゲーム世界のゴロツキですら言わない勧誘の台詞を彼は吐いて来たのだ。
「嫌です。」
「そうか。」
短いやり取りがあった。粋がりが服を着て歩いているような彼の声が珍しく冷静で、それが酷く、恐ろしい。
「お前は女の事しか見てない変態野郎だからな。」
本当の本当にこれっぽっちもどうでもよくて、一切何とも思ってないし、別にどういう訳ではないのだが、その一言に僕の何がが千切れる音がした。その原因は安い挑発によるものではない。ただ高田の面倒な態度に嫌気がさしたのだ。
「ああ、そう言えば高田先輩は僕と違って、男のケツの方が興味あるんでしたっけ?」
誓って言う。口にするつもりはなかった。
私をここに連れてきた高田軍団その一君も、周りにいた二番目から五番目の皆様も、そして高田自身もポカン、とした間抜け面。当然だ、発言した自分が一番驚いてるくらいなのだから。
2秒足らずの静寂を破ったのは、クソ忌まわしいバカ高田の拳だった。
「てめえ、言わせておけば!」
人に殴られたなんて小学生ぶりで、突然の事に理解が追いつかなかった。気付けば私は熱くなる頬を手で抑え、我ながら擁護出来ないくらいの汚い言葉を高田先輩にふんだんに浴びせ続けていた。部室の奥の方で遠目に見ていた他の部員達もこれには驚き、やり過ぎだと感じた取り巻き達も必死に静止しようとしたのだが、高田の暴走を止められる人間は誰一人として存在しなかった。
結局、騒ぎに気付いた教師らが駆けつけるまで私はタコ殴りにされていた。
私、ボコボコ。高田、ニコニコ。
生まれて初めて、人に対して殺意が湧いた。
教師陣の事情聴取も無事に終わり、ようやく学校を出る頃には、既に日は落ちていた。少し腫れた頬と掌に冷たい風が染みる。
今日は紛れもない厄日だ。私で無くともため息を吐かずにはいられまい。
そこに声がかかる。聞き慣れた低いハスキーボイス。
「辛気臭い顔しちゃって。幸せが逃げるよ。」
実のところ、先の高田の話に心当たりが無いわけでもなかったのだ。
数ヶ月前から何故か私の事を気にかけ、友人の少ない素晴らしく平穏な高校生活をぶち壊してくれた張本人。
「風原先輩……。」
如何にもな丸眼鏡をかけた文学少女らしい薄幸の彼女は、その返答に微笑みで返す。
「まさか、ずっとここに?こんな寒空の下、何をするでもなく待ってたんですか?」
「うん、この時間になるともう学校の中には居られないからね。それでも一時間くらいだったから、全然平気だよ。」
心配なんて事よりも、その理解出来ない言動にゾッとした。待っていた理由を考えれば尚更だ。
「自分の利益にならない人間の為に、一時間も?」
「そう、たった一時間だけ。」
もう一度、大きなため息が出た。最早それについては何も言うまい。というより、何かを言い返してもきっといいようにあしらわれるだけだ。ならば、無駄に体力を消耗することもない。
「高田くん、顔真っ赤にして帰ってったよ。泣きそうな顔しながら。何言ったの?」
「僕は別に。あの人強がってはいるけど繊細なんで、犬にでも吠えられたらそうなるんじゃないですか。」
「随分と大きい犬なんだね。」
「ええ、野良なので。飼い主も必要ないくらいに強い犬です、近寄らない方がいいでしょうね。」
笑う彼女を横目に、そう言えば、風原先輩以外に本当にクスクスと笑う人間を見たことがないな。なんて事を考えながら、私は一歩一歩ゆっくりと歩み出す。本当は走って彼女を置き去って行きたい気分だったが、到底そんな気力は無い。
だからだろうか、彼女の誘いを振り切れなかったのは。
「ねえ、この後さ。時間、あるでしょ?」
「頭痛が」「痛み止め。」
被せるように、一言。
「使わないだろうけど、用意して来ました。その言い訳もう十回は使ってるよ。気付いてる?」
気付いた上で使ってるんですよ、先輩。
頭上に満天の星が広がる、美しい空だった。
全身を斬りつけるような冷たい夜風も今は落ち着き、時たま一度だけ頬を撫で、熱のこもった頭を緩やかに涼ませてくれていた。
「……落ち着いた?」
「ええ、まあ。……いいや、元から落ち着いてはいますよ。ただ、冷静さを欠いてただけで……。」
「それは落ち着いてるとは言いません。」
まるで姉のようだ、とふと思う。
風原先輩。学校では友人もそれなりに居るが、常に穏便で冷静。安寧を好み、故に絶対に今後も注目を浴びる事はないであろう、絵に描いたような文学少女。
それがどうした事か、少なくとも私の場合、二人きりになった時に少しばかり雰囲気が変わる事がある。突き抜けて優しく、屈託のない笑みを浮かべる、クールとはかけ離れた様子は、私に違和感未満の微かなズレを感じさせる。
「真面目な話をするとね。君もね、ちょびっとだけでいいから、反省しなきゃダメだよ。確かに高田くんの態度も悪かったけど、喧嘩両成敗って言葉もあるじゃない。」
囁くような声色が、静かに私の耳朶を打つ。妙にくすぐったくて、どうしてかそれを心地良いと思ってしまう自分に腹が立って、つい冷たい態度で言い返す。
「あの時黙って見てた先輩に、どうこう言われたくはないですよ。僕が殴られる様をただぼうっとして見てたくせに。」
その度に彼女は悲しそうな目をして、けれど暖かい笑みを浮かべて、何度も小さく頷くのだ。泣きじゃくる子供を慰めるように。
かあ、と頬がまた熱くなった。それじゃあ本当に自分が子供に見られているようではないか。
「大体ね、毎日毎日付き纏われて、正直迷惑なんですよ。今日だって高田……先輩に言われました。お前は女にしか興味がないんだ、って。」
呂律をなんとか回して、いつ噛むかも分からないあやふやな頭で、それでもどうにかして文を紡ぐ。
「風評被害ってもんですよ、僕はただ、平穏に日々を過ごしたかっただけだったんだ。僕さえ平気ならそれでいい。くだらない喧嘩にさえ巻き込まれなければ、それで……。」
そんなものだから、思ってもない言葉だって出てしまう。滑り落ちるように、言葉がつらつらと溢れて出て来る。
言葉は、魔物だ。人類がそれを自在に操る事など到底不可能な狂気そのものだ。
「風原先輩さえ居なければ、こんな事に僕が巻き込まれる道理も無かった訳です。ただでさえ一人で静かな毎日を邪魔されてたっていうのに、これじゃああんまりですよ。しつこい……です。」
言い終わってみて、自分が息を切らしてる事に気付いた。同時に、先輩が心底泣きそうな顔をしているのも。
「ごめんね。」
とだけ。変わらず、声は優しいままに。
ぶわ、と、全身の毛穴から汗が噴き出すのを感じた。おぞましい程の後悔が身を包み、焦って言葉が出なくなる。何かを言いかけ、その度に喉から唸るような音だけが漏れ出て、そして閉じる。
「く、ふふふ。」
だから、先にその次を繋いだのは、先輩の方だった。
「優しいんだあ。本当は悪口なんて言い慣れてない癖に。しつこいって言った時の君の目、自分が言われてるみたいだったよ?」
またくすくすと先輩は笑って、もうすっかりその表情は元に戻る。泣きそうな気配は、とうに消えてしまっているようだった。
「君が本心から悪口を言える訳ないじゃない。カッとして、つい言っちゃったんだよね。ごめんね、本当に子供だと思ってるわけじゃないんだよ。」
「や、それで怒った訳では……。」
「うそつき。顔に描いてるよ。」
本当にこの先輩は、人の事をよく見ている。彼女と話す時、私の中では常に心の奥底を見透かされているような感覚があるのだ。
「まっ、でもしつこいって言われたのは傷ついたなあ。私の好意、そんなに迷惑だった?」
「それは……。や、然程、言うほどではないかもしれません。」
「……そう言うところ、優しいよね。人に強く言われるとすぐに折れて、合わせようとする。ごめん、今のも意地悪。そう返してくるだろうなと思ってさ。」
聞き捨てならなかった。同時に見逃す訳にもいかない、彼女が一瞬だけ伏せた目の動きも。
「いいえ、そこだけは本当です。さっきのは八つ当たりですよ。その、こっちこそごめんなさい、というか。」
それを聞くなり、彼女はぱあ、と明るい表情をしてみせる。心底嬉しそうな笑みと、そうか、そうか、と呟く声が、何故だかどうも照れ臭い。家族を除けば世の中で彼女だけだろう、私の言葉をそこまで気にする人間など。
「もうこの話は終わりです。先輩も満足したでしょう?」
「ええ、もう少し楽しみたかったのに。」
「勝手に言っといてください。」
どうしてそう、先輩は私の発言一つ一つを面白がって笑うのか。理解が出来ない感覚だ。
「もう、照れちゃって。」
「だから、どうしてそう僕を子供扱いするんですか。そりゃあ僕だって後輩ですけど、たかだか一歳の違いです。そんなに離れてるもんでもないじゃないですか。」
これには先輩、驚いた顔。そしてその次、ごめんごめん、と二度返す。反省の色はまるで見えない。
「別に馬鹿にしてる訳じゃないんだよ。その、どうしても君が可愛く見えてしまって。」
「正気ですか?男に対しては侮辱の類だと思うんですけど、それ。」
「ああ、待って、待ってっ。」
思わぬ回答に耳を疑い、次に先輩の頭を疑う。可愛いだなんて幼少期以降言われなかった言葉に戸惑いを隠し切れないのだ。
「もういいです、いいですよ。どうぞご自由に子供扱いを続行してください。所詮僕は格好良さなんて欠片も無い、子供とでも思わなければ見てられないような幼稚な人間ですとも。」
「……君、拗ねると面倒臭いんだねえ。」
「人が気にしていることをよくもそうズケズケと……。」
あはははっ。夜空に笑いが響き渡る。
その直後だった。先輩が珍しく難しい顔をして真剣に考え込み、少しだけ口ごもってこちらを見て、何かを呟いて全く関係のない方向を見始める。
「あの、先輩。何か?」
「ん、ううん。ただ、私は君と一緒に居たくて、君は私に子供扱いされたくない。同時に解決出来て尚且つ君もハッピーな意見を提案すべきか否かでちょっと迷ってる。」
「それはもう、是非。……その前に提案ってなんです?そんな事をする前に先輩が心がければいいだけの話なんじゃ……。」
「よし、じゃあこうしよう。」
無視かよ、とも思ったが、この時の私は敢えて口に出す程のものではないか、とそれを軽視していた。
今にして思う。絶対にこの時話しの流れをへし折って、すぐに家に帰るべきだったのではないか、と。
次に先輩が放った一言は、私を混乱の海へと叩き落とすには十二分過ぎるほどの言葉だった。
「私と、付き合っちゃおうか!」
「……はあ」
混乱で、ただそれしか言葉が出なかった。
「やったっ!」
後悔その二である。私の混乱の声を、何故だか先輩は都合よく勘違いして、YESとして発声した言葉なのだと捉えてしまったのだ。
「本当に?本当にいいの?」
先輩の艶やかに煌めく瞳が限りなく近付き、私の心の奥の底の底を除いてくる。
この距離は、不味い。
「い、いや、ちょっと待ってください。僕と先輩が付き合う事でどうして先の二つの問題が解決されるのか……先輩の望みは分かりますが、僕の『子供扱いされたくない』という願望が叶う理由が分かりません。」
言葉のどさくさにまぎれ、グイ、と強く、しかし拒絶の印象を与えない程度に優しい力加減で肩を押す。
「ええ、そんなの簡単だよ。だって……。」
だがその時の彼女の力は、運動経験0の私程度にならば勝てる程に強く、すぐに彼女の口が耳の隣にまで到達する。全身が当たり、静かな吐息さえ聞こえる距離。
「君と付き合ったら、私本格的に君の事を異性として意識しちゃうもの。」
そこから放たれる、甘い囁き声。姉のような優しい声色ではない、完全に女性としての武器を使って来た、蕩けるような静かな声。途端私の身体が無意識的に反応し、ピク、と静かに、しかし確かに身体が揺れる。
「これからずうっと、よろしくね。」
人の温もりに限りなく近い、けれどそれ以上の熱を感じる濡れたナニカが、私の耳たぶに絡みつき、そのまま骨を伝い、優しく全体を舐った後で、耳の穴の中に到達する。ゾクゾクと背筋が震え、ただその初めての、予想し得ない感覚に脳は溶け、腰は砕け、呆然と彼女に寄りかかる。
くすくす、という笑い声が、終わりの合図のようだった。
「もうこんな時間になっちゃったね。ただでさえ学校から出るの遅かったし、お母さん心配してるんじゃないかな。続きは……また、今度にしようか。」
先輩が私の耳元からようやく離れた時、薄く開かれた瞼の隙間から見える瞳は、妖しい輝きを宿していた。
彼女の真意は分からない。私を利用したのか、私そのものに用があったのか。
どうにせよ、この時私は、何かが拗れた、歪な関係になる予感を感じていた。
何度だって言おう。
私はこの日、彼女に心を許してしまった事を、強く、強く後悔している。
初めての投稿で至らない点が多々あるかと存じますが、よろしくお願い致します。
是非感想をいただければ幸いです。