人生迷い道
(SUN&SON)
「あれ、もしかして6年前に来た時と店の名前がちょっと変わったんじゃないですか」
「うんそうだ。3年前に変わった。そのいきさつについてはさっき言ったママの辛い出来事にもかかわるんだが話の流れの中で分かるだろう。ママはママで笹山君の話を聞いたら驚くだろうな、どうれこの模様にもってきて平日だから暇だろう」
山岡は博之に店名が変わった理由をぼかしながら説明した後、店は暇だと決めつけてドアを開けたがその思惑は見事に外れて若い男が4人ばかりボックス席でカラオケに興じていた。幸いカウンター席は空いていたので山岡はためらうこともなく陣取るように座ると人差し指を立ててキープしてあるボトルを出してくれとママに告げた。
「なんだい、今日は完全貸切かと思ってたら意外だな。まあ若い連中は奈緒子ちゃんが相手してるから大丈夫か。ママ先日言った懐かしいお客さんを連れて来たけど覚えているかな」
「はい、いらっしゃいませ。ええ覚えてますよ。確か研修で来たんだったよね。何年前のことだったかしら」
「お久しぶりです。と言っても一度来たきりですが笹山です。前回は6年前の春先です。もう雪も溶けてました。冬の新潟は初めてなんですよ。平地でこれほど雪が積もるなんて僕の基準では考えられません」
「そうそう笹山さんでしたね。あの時は野球の話なんかで盛り上がったんだよね」
「野球の話から競馬やらなんやら、あちこち飛んで訳がわからなくなったんですよ。僕は今、仕事で知り合った方に誘われて野球チームに入ってます。もちろんレギュラーじゃないですけど。それと山岡さんから言われたことは忠実に守って魚釣りはすっかりのめり込んでしまいました。その他にもテニスやスキーまで手を広げて休日はほとんど遊びっぱなし、でもそんな生活ももうすぐおしまいです。会社を辞めて田舎に帰ることにしました」
「あらまあ、それじゃこの前は入社祝いだったのに今回は送別会になるのね。次の働き先は決まっているの」
「それがまだなんですよ。辞めたい気持ちはだいぶ前からあったんだけど本当に辞める決意を決めたのは最近のことなんで次の仕事はけせもいに帰ってから探します。漠然と今度は食品工場で働きたいと考えてたんで山岡さんに話を聞いて貰おうと新潟を訪れたんです」
「あのさあ、笹山君。この際だからはっきり言うが新潟へ来た本当の目的はあの話をママに聞いてもらいたかったからじゃないのか。まず工場の話をするという名目で俺にコンタクトを取れば必然的にこの店に来る流れになるというシナリオを描いた。おそらく仙台には本当に腹を割って話す相手が居ないんだろうな。あんな話は男より女に聞いてもらった方が変な意味ではなく今後の糧になりそうな気がすんだよ」
山岡は博之がなかなか由里子のことを切り出しそうになかったので業を煮やしたように言った。
「すみません、半分いやそれ以上図星です。でも僕は最後まで迷っていたんです。とにかく有給休暇を取って少しの間、仙台を離れたかった。考えた末にここへ来ることに落ち着きました。僕の社会人としての出発点でもありますからね。しかし山岡さん達がいてくれて良かった。ママ、申し訳ありませんが僕の話を聞いていただけますか。会社を辞める理由にもなってるんだけどちょっと情けないことかもしれない」
「おやおやなんだか込み入った事情があるみたいだね。山岡さんと西田さんには話したんだろうけど、いいよ私でよければ聞いてあげるからまた話したらいい、あたしらの商売はお客さんの悲喜こもごもとした話や馬鹿馬鹿しい話、ジャンルを問わずなんでもキャッチボールみたくやりとりするのが本道だからね。もちろん私には理解不能な小難しい話は聞き流すよ」
ママの言葉で博之は安心を得て居酒屋で山岡と西田に話した時よりも掘り下げて自分と由里子が仙台で暮らした日々のことを語った。ママは全てを聞き終えると黙って煙草を一本ゆっくりと吸った。それはごちゃごちゃになった活字を拾い上げて博之に話すべきことを整理しているようであった。
「ずいぶんと辛い目に遭ったんだね。慰めの言葉なんて簡単には見つからないよ。確かに心が折れたのは分かる。けど決して自分は弱い人間なんだと思っちゃいけない。どうやら私の昔話をしないといけないみたいだね。山岡さんと西田さんもまた聞かされるの嫌だろうけどさ付き合ってくれるかい」
「俺達には遠慮する必要はないよ。ドラマチックだが辛い背景のある話だけど今じゃそれがママの活力になってるんだから笹山君にとっても勇気づけになると思うんだ」
「山岡さん、ドラマチックだなんてそんな御大層なもんじゃないよ。あのね笹山さん、私がこれから話すことは半分恥さらしな事なんだけど山岡さんが言うように今の私にとって生きる源になってる。人生は辛い出来事の方が多いけれども少しでも笑いに変えられるなら最高だよ。他人がどう思うとかは関係ない。だから笹山さんへのエールになるかどうか分からないけど聞くだけ聞いて」
ボックス席では相変わらず若者達ががなりたてるようにカラオケに興じていたが、その叫声はすでに博之達の耳には入らなかった。その切れ間にママの昔話が始まった。ナレーションのような語り口に博之はカウンターに身を乗り出すような格好になった。
「私は若い頃は手のつけられないワルだった。ああ弁解になるけど部活動をやってるうちはまだ真面目な生徒でいた。そこは強調しておかないとね。引退してからちょいとした好奇心から横道に逸れて戻れなくなったんだよ。高校卒業したら東京の専門学校へ行くことに決めてたから、田舎者と舐められるのが嫌で部活の仲間数人とイタズラ半分に変に格好つけたのがまずかった。不良グループに目をつけられ絡まれたんだけど私達はスポーツをやってたから体力負けすることもなくて逆にそいつらを締め上げたら他校の不良グループ制圧したいから助っ人になってくれと頼まれて、いい気になっちまった。それでも高校だけは無事に卒業できて専門学校へ入学したのはいいんだけれど田舎で横道に逸れた人間にとっては東京という大都会はあまりにも刺激的過ぎた。だからすぐにまたあまりよろしくない方向に行ってしまった。専門学校は休みがちになってほどなく退学したものの体裁が悪くて地元に戻るなんてことなんて出来なかったから水商売勤めという、まあお決まりのコースを辿った。当然、色んな誘惑があったけど身体を安売りすることだけはしなかった。そこまでしてたくさんのお金を得たいなんてところまで堕ちたらおしまいだと思った。自分の食い扶持とせめてもの罪滅ぼしになればと実家にいくらかでも送金できるくらいの金が稼げれば十分だった。でも当時の仲間にはパトロンがいて優雅な暮らしを送る姿に羨望を覚えなかったと言えば嘘になる。そんな悶々とした葛藤の毎日を過ごしていた頃さ、今となっては運命の出逢いだよ」
ママは天井を見上げると灯りをじっと見つめた。振り返ることがたくさんあるのだろう。活字拾いは際限なく続くように思えたが博之は6年前にここを訪れた時にもママは同じような行動を取っていたことを思い出した。あの時はたわいない話の区切りでそうしていただけだったが今日は違う。中身が重たい。これから話が進んで行くうちに重さはどんどん増すのだろう。本当ならば簡単に打ち明けるようなことではないはず。そう思いつつも博之は新潟を訪れたことはあらためて間違いではなかったと確信した。
「あれは勤めが終わって、そう暑い時期だったから日の出も早くて本当に太陽が黄色く見えるんだなってことを知ったばかりの頃だった。私はそんな朝方の人気の消えた繁華街をフラフラと歩いていた。いつもならすぐに部屋に帰ってたんだけどその日に限って昼間の活動が始まる直前の雰囲気を感じたくていつもとは違う路地に足を踏み入れた。はっきり覚えてないんだけど店で嫌なことがあったんだけどそのゲン直しのつもりだった。見慣れない風景を眺めながらチンタラ歩いてたら突然、物陰から出てきた風体の悪い男二人に腕を掴まれて路地裏のどう見ても廃墟そのものの建物の中まで引きずり込まれた。口を塞がれて声も出せやしないからもう駄目だと思った。そこは女一人でうろついちゃいけないと言われてたのすっかり忘れてたんだね。いくら高校時代にスポーツやってて最後はワルのボス気取ってたって所詮か弱い女さ、男二人に勝てる訳なんかない。それでも塞がれた口が自由になった隙にあらん限りの声で叫んだ。するとそこへ一人の男性が何をしていると颯爽と現れた、いやそう見えただけだったかも知れない。切羽詰まった状況だったからね。とにかく助けが来てくれたと力が抜けてしまった。まあドラマなんかだとそんな場面に登場する男はちょっとワルっぽくてグラサンを粋に掛けてるイメージでしょう。ところがその男性ときたらヨレヨレのTシャツにくたびれたジーンズなんだもの。簡単に返り討ちされて終わると思ってたら滅法強くて二人のならず者はかなり手こずった。しかし2対1じゃよっぽど実力差がないとだめだね。結局双方痛み分けみたいな感じでならず者二人は面倒になったんだか疲れたのか分からないけど捨て台詞吐いてどっかに行っちまった」
「でもさ、その男性はママを身体を張って守ったわけだろ。ナイト様と呼んでもいいくらいだ。もっとも俺だったらそいつら簡単にボコボコにしてやっただろうけどな」
「山岡さんまたそれ言ったか。あんたはガタイはいいけどそんなに強いと思えないんだよね。でも熱血漢なのは確かだからあの場に居合わせたら本当にやってたかも。だけど私は怖くなって礼も言わずにスタコラサッサと消えたと思う」
「う~んそうかもな。ドラマや映画のヒーローはボコボコになんかしないで腕を締め上げて力の差を見せつけ、それじゃお嬢さん気をつけて帰んなよとか言って背を向けスッと居なくなるのがオチだ」
山岡は以前、この話を聞いた時にも同じことを言ったようでそこをママに突っ込まれ追い打ちをかけるように西田からもダメ押しの一言をもらったがそれをよそにママの話はどんどん佳境に入って行った。
「彼はヒーローではなかったけど私を守りたい気持ちだけでならず者に向かっていったのはよく分かった。普通だったら2対1の喧嘩なんて怖くて出来ないでしょう。全てが終わった後、彼は瞼が腫れ上がり足腰も立たない状態だったから今度は私が介抱するしかなかった。そのまま部屋へ連れ帰って冷やしたり消毒液を塗ったりしてね。本当ならすぐに病院に行かなきゃならないくらいだったんだけどいろいろ聞かれるとややこしくなる。どうしたって最後には喧嘩したのを見抜かれて警察に通報されてしまう。それを分かってて病院に行こうと言ったんだけど頑なに断られた。職場に知られたら面倒なことになるからさ。幸い致命的な怪我がなかったから今思うとラッキーだった。そして彼に職場には酔っ払って転んでしばらく出れないってことにして私のところに居なよと言った。成り行きだしせめてもの恩返しのつもりだったけど若い男女が一つ屋根の下、一線を越えても不思議じゃない。だけど彼は指一本触れて来なかった。もっとも怪我の痛みでそれどころではなかったんだろうけど。私は今でも紳士的な対応だったと思ってる。結局三日ばかりの滞在だったけどその間お互いの身の上を語り合った。彼は私より五つ年上で出身が青森だったから訛りが何だか外国語みたく聞こえた。それは私も一緒だから方言のすれ違いが楽しかった。仕事は港湾労働者をしていると言ってたけどその前は鉄工所で働いていて社長と揉めて飛び出すように辞めたのはいいがこのままおめおめと青森には帰れない。東京の鉄工所で技術を習得するために上京してきたのに、とこぼされた時はなんだ私と同じようなものじゃないかと意気投合してね。それから時々会うようになって気がついたら一緒に暮らし始めていたんだよ」
「同棲を始めたってことですね」
博之は由里子にプロポーズしてすぐに一緒に暮らそうという一言を言いそびれたことを悔やんでいた。喉まで出掛かっていながら言えなかったのだ。もし同棲という形を取っていたなら身体の異変に気づいたのではという思いが今さらながら頭の中を駆け巡る。しかしママの話は博之のそんな気持ちをよそにどんどん進んで行く。
「そう、一緒に暮らしているうちに私は彼に鉄工所の社長さんに頭を下げて再び戻ることを提案した。港湾労働者の仕事は危険なことだらけでまた怪我されちゃかなわない。何より彼自身が鉄工所を辞めたことをかなり後悔していた。だったら絶対戻るべきだと強く言ったよ。だけど後ろ足で砂をかけるような辞め方をしたからそれは無理だの一点張り、ならば私も一緒に行って、この人は私を守るために身体を張った武勇伝の話もすれば社長さんも或いは首を縦に振って復職を認めてくれるかもと説得したらようやく腰を上げてくれた。鉄工所を訪ねると社長さんは彼と私の目をしばらく見つめた後に上がれと言って事務室に通された。そこで彼は社長に非礼を言葉足らずだったけどありったけの誠意を見せて詫びた。それから私は彼が私をならず者から身体を張って守ってくれたことの顛末をかなり脚色して言ったんだけど思い返せばずいぶんと滑稽な話だよ。無我夢中だったから仕方ないのかな。一通り私達の言い分を聞いた社長さんは今度は彼の目だけを見て、いい顔になったな。その一言で復帰が決まりそれを機会に私も夜の仕事を辞めて昼間の仕事に変えたんだ。パートタイマーのスーパーのレジ係。当然収入はがた落ちしたけど生活は落ち着いた。間もなく妊娠、入籍、長男の誕生とかなり目まぐるしい時期だったね」
ここまでのママの話には悲壮感が漂いながらも同時にどこか楽しげに思える部分も垣間見える。だが話の山頂に登りつめたところに真相があるのだろう。山岡と西田そしてママの視線が一瞬合ったがその表情にピンと張り詰めたようなものが浮かんだのを博之は見逃さなかった。
「彼、いやこれから先はあの人と呼ぼう。趣味はオートバイだったんだ。風を感じながら走るのが最高だが口癖でつるむことや闇雲に峠を果敢に攻めたりなんてのはしないで一人で朝方や夕暮れ時の海岸沿いを流すことが一番好きだった。それでいていざ気合いが入ると狂ったような走り方するもんだから後ろに乗っけられた時は死ぬかと思ったことが何度あったことか。やっぱり根は激情家そのもの。そんなだから友達も少なくて当然だよね。気の許せる相手は2人しかいなかったんじゃないかな。そのうちに私も感化されてこっそり免許を取って自分のオートバイ買っちゃった。最初は子供がまだ小さいのに何を考えてると怒られた。遠出は無理だったから子供を私の友人に預けて近場には何回か出掛けた。そして子供の手がかからなくなったら泊りがけでツーリング行こうなんて話していた矢先だった。あの人は息子が三つの時に天国へ行ってしまった。一人で国道を流していた時に居眠り運転のトラックがセンターラインはみ出してきて間一髪かわしたんだけどガードレールに激突して大腿骨と肋骨を3本も折る大怪我で今度こそ即入院だよ。その時に肺ガンが見つかった。私は事故る2か月くらい前から異常に咳き込んでいたから病院に行って診てもらいなよと言ったけど大丈夫の一点張りで聞く耳を持たなかった。結果はどうあれもっと強く言うべきだった。ガンと分かった時にはあちこちに転移しててもう手が付けられない状態だったんだよ・・・・・」
博之の頬を涙が伝ってカウンターの上に滴となって落ちた。そして自分も同棲していたとして由里子の異変に気づいたら、首に縄をつけてでも病院に連れて行っただろうか。そんなことを考えたところで由里子は戻っては来ないのだけれど博之の頭の中には仮にこうしていたらという思いが次々に沸き起こった。ボックス席ではカラオケに飽きた若者達が奇声と共に浮かれきった時に無意識に出る意味不明な言葉を発している。かたやこちらはしんみりとした話でどん底に突き落とされたに等しい状況にある。同じアルコールが入った人間でありながら精神状態は真逆だ。一つの空間に全く異なる二つの世界が存在している。それは形態はどうあれとことんまで非日常を演じる場所ゆえに違和感という言葉が入り込む隙は微塵もなかった。ママは博之にこれで涙を拭きなよとおしぼりを渡すとまるでオートバイのギアを一段上げたかのように話を続けた。
「あの人が死んだ原因は確かに肺ガンなんだけど息子にはあんたの父ちゃんは大好きなオートバイに乗っている時に派手に格好よく散っていった最後だったんだよと言った。3歳だもの記憶に残っていなかったから簡単に刷り込めた。正直格好良いことなんてないんだけど息子には父親のイメージとしてそう植え付けたかったし私自身もオートバイで最期を遂げたと無理にでも思い込もうとしていた。若かったとは言え馬鹿な話さ。息子は成長とともに父親を偶像化し始めた。中学生になる頃には友達にも俺の親父はどうのこうのと吹聴するようになって、さすがにマズイと思ってそこで考えた。ああちょっとごめん、自慢話になるけど息子は学業成績もまあまあ良くて運動神経もなかなかのものだった。学業の方はまさに鳶が鷹を生んだって表現がぴったり当てはまっていた。それで父親の幻影を追っかけた末に私みたく横道に逸れさしちゃいけないと父親が死んだ本当の理由は病気なんだよと話した。中学3年の夏休みのことだった」
ここで西田が申し訳なさそうに口を挟んだ。
「ママ、済まない。笹山君ちょっと話が変わるが俺は今、少年野球チームの監督をやっている。ママの息子は陽一君というんだが小学生の時に教える機会があって筋の良さに舌を巻いたよ。リトルリーグに行けば甲子園常連校からも誘いがかかったと思う」
「アハハ、西田さん、そりゃ買い被りってもんだよ。ソフトボールやってた私から見たら甲子園常連校なんてとても無理だったよ。守備はまあそこそこ上手いとは思ったけどね。打撃が酷すぎた。だから私はスポーツより学業に身を入れて欲しいと思って父親の死んだ本当の原因を教えたのはいいんだけど息子は真実を知ったとたんに何だか気落ちしてしまって1週間くらいまともな会話が途絶えてしまった。だけど突然、医者を目指すことにしたなんて言い出した。父親がそんな病気で命を落としたんなら俺は医者になって救える命は一つでも救うんだなんて熱くなったんだけど、さすがに無謀過ぎるからハードル高くする必要はないって諭したんだけど机にかじりつく時間が飛躍的に増えてまさかの国立大学の医学部に合格して今3年生なんだ」
博之は穴があったら入りたいという気持ちはまさにこんな時に起こるのだと肌で感じた。自分が今まで抱いていた悩みなどなんてちっぽけなことか。ママの息子は父親の死の真相を知るというきっかけがあったにせよそこから明確な目標を掲げて医学部入学を果たした。間違いなく良い医者になるだろう。同時にママの頑張りにも敬意を払わなければと思った。いくら奨学金があるとしても学費の工面は大変なはずだ。そんなことを考えているうちにふと店名が変わった理由がなんとなく分かったような気がした。
(SUN&SON、そうかSONは息子だ。細かい発音の違いは知らないが日本語的に言えばSUNもSONもサンという言い方になる)
博之はママに店名を変更したのは語呂合わせではないのかと訊ねた。ママは我が意を得たりというようにニッコリしながら答えた。
「語呂合わせねえ、言われてみればそうだね。まず最初に夜の商売なのになぜ太陽という意味のSUNにしたかなんだけど、この土地は今日みたく雪に閉ざされる日は本当に気が滅入る。だからおこがましいのは承知の上で店を訪れるお客さんを私が太陽のように照らしてやれたらと思ってそんな店名にした。あの人が死んでどうしようと考えた末に女手一つで息子を育てる金を稼ぐには自分にはやはり水商売しかないと結論を出した。だが東京はもうこりごりだったし働いてる間の息子の面倒を見て貰うのは私の親しかいない。それで恥を忍んで田舎に戻った。それから20年が過ぎて息子も成長した。店名を変えたのは息子が大学に入学した記念でもあるしご褒美でもあるんだ」
「ママ、ありがとう。なんだか僕も元気を貰えた気がします。しかし本音を言えば今の会社を辞めるのも田舎へ帰ることも不安でいっぱいなんです」
「それは分かるよ。私の場合は田舎に戻ってもまた慣れた水商売を再開した。違いは東京では雇われの身だったのが一国一城の主になったことかな。雇われ人ならば店がポシャっても別なところ探せばいいけど自営業となると全てが自己責任だ。最初のうちは資金繰りやらなんやらで心配事だらけで胃に穴が空きそうだった。だけど徐々に常連さんも増えてなんとかここまでやってこれた。笹山さんは全く違う仕事に就くつもりのようだけどゼロからのスタートだと思えばいい。私はマイナスからだったからね」
山岡がウンウンとうなずいて博之の肩を叩いた。
「そうだよ俺も何度も職場変えてゼロもマイナスも分からない日々が続いた時期もあった。結局は仕事が嫌で悩むのか仕事をどうこなすかで悩むかの繰り返しで生きてんだと思う。俺はなんだかんだで今の職場が一番居心地がいい。さてそろそろ帰るか、明日も仕事だし雪も気になる」
博之は満足感でいっぱいになった。研修の時に工場に足を踏み入れた瞬間、言いようのない衝撃を受けて心を突き動かされたまま分からなかったものの実体がはっきり見えた。
(あの時点で俺は工場勤務の仕事に憧れに近いものを抱いてたんだ。いや内勤ならばなんでも構わなかった。そういうことなんだよ)
外へ出ると雪の降り方は激しさを増していた。景色もよりいっそう幻想的な世界へ誘うように光のコントラストを演出しているようだ。仙台やけせもいではまずお目にかかれない光景に博之はすっかり魅入られていた。それをよそに地元の3人は充実したひとときであったがまだ物足りない様子も窺えた。そんな気持ちを代弁するように山岡がポツリと言った。
「明日仕事さえなけりゃもっとゆっくりできるんだがな。笹山君、今度来る時は俺達の休日前にしてくれよ。それにしてもタクシーは遅いな」
「この激しい雪だもの仕方ないわよ。3人とも寒いから中に入りなさいよ」
ママは博之達を店の中に呼び入れた。
「笹山さんは明日は仙台に戻るのかい」
ママが手をこすり合わせながら訊いた。
「いえせっかく有給休暇を取ったんで山形の酒田から岩手の北上を経由して帰ります。学生時代の友人がいるんで久しぶりに会ってみようかと」
山岡はそれはいいことだと言い、パンと手を叩いた。
「そうだ、言い忘れたことがあった。俺も去年から釣りを始めたよ。西田の執拗な誘いに根負けしたようなものだがやってみると面白いもんだな。もっとも防波堤からのチョイ投げで竿を眺めてるだけだから獲物はほとんどないけどな。その分競馬やゴルフの回数が減ったからカミサンはしめたと思ってるはずだ」
山岡は根負けという言葉に力を込めて言ったものだから西田は心置きなく補足を付け加えた。
「俺は何もギャンブルを否定するわけじゃない。頻度の問題だよ。山岡は釣りを始めたことでバランスが良くなったんじゃないか。だからあのチェロキー買うのも奥さんがOK出したと思うぜ。ところで笹山君は船の釣りをやるんだよな。俺もいっぺんやってみたいのだが船酔いの心配が先に立つんだ。みんなどうやって対処してるんだい]
「薬局で売ってる乗り物酔いを軽減する薬を飲めば大丈夫です。個人差はありますけどね。あと傾向としてお酒をある程度飲める人は船酔いしにくいような気がします」
「そいつはまた朗報だな。なあ山岡、今年は船釣りに挑戦してみないか」
「俺は遠慮しておくよ。ゴルフと競馬が全くやれなくなってしまう。西田、お前一人で行ってくれ」
山岡が両手をクロスして拒否のサインを出したところで店のドアが開きタクシーの運転手が到着の遅れを詫びながら入ってきた。今度こそ解散だがママは博之にいつの日かオートバイでけせもい市を訪れてみたいと言った。太平洋から昇る朝陽を見たいらしい。
(そうか俺は一度だけ日本海に沈む夕陽を見たがとても感動的だった。だから日本海側に住む人が太平洋から昇る朝陽を見たいという気持ちは理解できる。その土地に住んでいる人間にとっては当たり前の景色も違う土地の人間が見れば新鮮な光景として目に映るのは当然なんだよな。現に今の俺だってこの雪景色に感動してるわけだし)
博之はママに握手を求めて礼を言いタクシーに乗り込んだ。予約しておいた駅前のビジネスホテルに着くまでの間さっきまで4人で語り合ったことを反芻してみた。過去を振り返り嘆くことばかりに費やしていたエネルギーをこれから先のことを考える方向に転換出来そうな予感を覚えてタクシーを降りた。まだ雪は降り続いていて風も強い。そのためなのか積もり方がどこかいびつだったが博之の心の中は極めてフラットな状態になっていた。
3月は決算期の業務に追われる企業が多い。そして翌月の4月は異動やら新入社員の配属などで慌ただしい日々が続くがそんな合間を縫って歓送迎会と銘打たれた宴がいたるところで行われるのも春先の風物詩だ。S製菓仙台営業所でも本社へ異動する川本と退職する博之の送別会が催された。幹事を勤める社員が手際よく述べた開会の言葉に続いてまず川本が挨拶を行った。
「今日は私と笹山君のために忙しい時間を割いてくれてありがとう。え~と私が本社に異動になるということであちこちから栄転という言葉が耳に飛び込んで来るのだが実際にはそんな華やかなものじゃないんだ。本社総務部に新設された社史編纂室という部署なんだが営業の第一線から外れる上に広報や人事といったポストとも違う。体よく言えば雑務的な仕事内容で左遷とまではいかないが今までのように毎日神経を尖らす必要のない閑職なのは確かだ。ここまでさらけ出したから言うが社史編纂室を立ち上げると知った私は真っ先に手を挙げたんだ。情けない話だが営業の管理職に限界を感じた。さりとて歳も歳だし簡単に辞めるわけにもいかなかったからなりふり構わない決断ではあったな。数年前まではもっと上を目指そうという気概も多少はあったのだが何かが足りないと気づいた。しかしこれまでの仙台営業所での日々は辛いこともあったがそれ以上に楽しく仕事に携わることが出来たと振り返れる。ひとえにみんなのおかげだよ。あらためて感謝する。今まで本当にありがとう。私は人に恵まれた」
幹事役の社員が目頭を押さえながら川本に一礼すると他の社員から万雷の拍手が起こった。博之は川本に退職届を提出した日のことを思い出した。そう、本社だから栄転かどうか分かったものじゃないぞ。
(そうした身の施し方もあったか。確かに川本所長が移る部署は閑職なのかも知れないがコツコツ取り組む仕事が合っているような気がする。社史編纂室とはまさにそんな部署なのだろう)
川本は今度は君の番だぞと博之にマイクを手渡したが受け取った瞬間に緊張感が全身を貫いて考えていた口上が頭からほとんど消えていた。博之はこれで恥をかくのも最後なんだしと開き直って断片的に残っていた口上の記憶を繋ぎ合わせて挨拶の言葉を述べた。
「私はこの3月いっぱいを持ちまして退職することになりました。6年間ほとんど戦力として貢献出来なかったことをこの場を借りてお詫び致します。またそんな私を温かくご指導くださったことも併せて感謝申しあげます。私は昨年暮れに亡くなった谷口由里子さんと結婚する予定でした。その後生活が落ち着いたのを見計らい、私の故郷であるけせもい市に戻るつもりでおりました。ですからこの退職は前倒しということになります。最後になりますが私も川本所長と同じく人に恵まれたからこそ頑張れたと思っています。本日はありがとうございました」
再び万雷の拍手がひときわ大きく沸き起こった。博之は何度となく酒席の場に居合わせたが最も盛り上がり忘れられないものになるように思えた。緒方がEマートを去る時には送別会がなかったことを聞かされていたからよけいそのように感じたのだった。
したたかに飲んだ翌朝はさすがにキツい二日酔いの歓迎を受けた。痛む頭を抱えて起き上がると優しく響き渡る小鳥の鳴き声が不快感でいっぱいの気分を少しだけ和らげてくれた。
(今日は何もせずに酒の気が抜けるのをじっと待とう)
本格的な春の訪れもそう遠くない。博之はS製菓を退職して10日ほど経過したが、けせもい市に戻るのは5月の連休明け辺りで良かろうと決めた。ガスや水道、電気などの解約を済ませばすぐに引っ越せるのだがこの6年の間に意外なほど所持品が増えていた。そうしたものの整理にも時間が必要だったのに加えて草野球チームが博之を最後に引退試合のような形で送り出してやるというのだ。いくら草野球とはいえ真剣勝負をしているのだからと一度は固辞した。しかしチームに加入してからのほとんどを裏方の存在で過ごした博之を思う存分にプレーさせてやりたいと監督やチームメイトの意見に後押しされ博之は申し出を了承した。決まったからには部屋の片付けなどスローペースで構わないだろうとバッティングセンターに通うなどして調整を始めた。そんなある日に緒方から電話が入った。
「どうだ。片付けは順調に進んでいるか、まだ試合まで日にちもあることだしのんびりやるといい。しかしなあチームからレギュラーが既に転勤などで二人抜けてしまったから今年は誰か補充しないと苦戦続きだ。笹山君、籍だけ残しといて時々けせもいから助っ人として来ないか、まあそれは冗談として最後に念願が叶って良かったじゃないか。やってみたかったんだろう。一番センター。それでだな、お前の引退試合には俺が先発としてマウンドに上がる。監督に直訴したらOKしてくれたよ。なんせお前をチームに誘ったのは俺だからな投手も出来る俺が登板するのが当然だろう」
「え、緒方さんが先発。エースの岸本さんじゃないんだ。プレッシャーかかるな。なるべくセンターには打たせない投球でお願いしますよ」
「それは無理な相談だ。第一、守備機会ゼロではつまらないだろう」
緒方は通常、右翼手か一塁手のポジションに就くが投手としてマウンドに立つこともある。岸本という男がエースであるが博之の目には球の速さだけなら緒方の方が勝っているように思えるのだが速球一本で抑えられるレベルのリーグではない。それゆえに緒方は甘い変化球を痛打されることが多かった。そのことについて気になることがあったので思い切って緒方に打ち明けた。
「あのですね、緒方さん。俺は試合前にブルペンでボール受けることがほとんどでした。去年のシーズン終わり頃だったかな。緒方さんのボール受けててあることに気づいたんです。変化球を投げる時なんですがストレートを投げる時と微妙に違ってるんです。テークバックでグラブの向きが変化球の時は三塁側向きでストレートの時は捕手向きになってました。だからいい打者にはバレていて打たれていたんじゃないかと思うんですよ」
「なんだって本当か。しかしよく分かったな。正捕手の村野君には一度も指摘されたことがないぞ。もっとも登板じたいがそれほどないからな、ありがとう試合までには少しでも修正する」
「ブルペン捕手やっててただ受けるのも面白くないんでいつしか観察するようにしていたんですよ。最初はなかなか分からなかったのが少しずつ癖が見えて来たんです」
博之はふと思った。俺のこれまでの人生はまるでブルペン捕手そのもの。しかもただボールを受けるだけの存在だった。全てが受け身で考えることすらしない、面倒なことからも目を背けて来た。おそらく今後もブルペン捕手のような生き方を変えることは難しいだろう。だったら観察眼を備えたブルペン捕手になれば良いではないか。緒方からの電話を切ったあと少しだけ胸を張ってみた。
博之が所属している草野球チームのリーグには試合開始時刻を10分過ぎて人員が揃わない場合、そのチームは不戦敗となる取り決めがある。こうした不戦敗はみんな仕事がある以上避けようがないことなのであるが、よりによって博之の引退試合と決めていた試合でそれが起ころうとしていた。レギュラーが二人抜けた影響もあるがこのままだと不戦敗だらけになるから早急に人員補充が必要だぞという声が上がり始めた。いつもなら不戦敗確定の時点でそのまま解散か、審判を参加させるなどして練習試合を行うかという流れになるが今日は誰しもそれは避けたいとヤキモキしている。足りない人員は一人だけだが試合開始時刻から12分オーバーしてしまった。さすがにこれ以上は待てない。練習試合にしましょうと協議を終えた時に最後の一人が息を切らしながら現れた。こうなると双方ともに真剣勝負でやりたい気持ちが沸き上がる。博之はスパイクの紐を結び直して肩を回した。先発投手の緒方も気合いを込めてシャドーピッチングの仕草をしてみせた。
試合は1時間30分以内にやれるイニングまでで最長は7回で試合終了のルール。同点の場合は引き分けとなる。テンポ良く試合が進行すれば一番打者の博之に3回は打席が回るだろう。ふだんは控えの自分にそんな好条件を用意してくれたチームメートに感謝の言葉を述べてから最初の打席に入った。
(相手チームは控えの俺が一番に入ってることで相当戦力ダウンしてると思っているに違いない。だから俺に対してはなめた攻め方で来る。変化球はないだろう)
博之はそう読んで構えに入った。果たして一球目から真っ直ぐが外角やや高めに投じられた。
(緒方さんの方がずっと速い、打てる)
博之は迷うことなく振り抜くと打球は右中間の真ん中を破りフェンスまで達した。ボールを掴んだ右翼手がもたつくのを見て2塁ベースを蹴って3塁へと向かった。滑ることなく悠々セーフだ。
(やった。長打は過去に2塁打を一度打ってるが3塁打は初めてだ)
博之はガッツポーズをしながらもすぐにプレーに集中した。すでに2番打者が打席に入っている。初回からスクイズはないだろうし、一点は仕方ないと相手も前進守備を敷いていない。博之は打球にもよるが内野ゴロならば迷わずホームに走るつもりで間合いを取った。2番打者は3球目の変化球を2塁方向に緩いゴロを打った。
(よしこれなら行ける)
2塁手は1塁に送球して打者走者はアウトになったが博之は先制のホームを踏んだ。その後3番打者が4球を選び4番の緒方が左翼越えに本塁打を放った。今シーズン早くも3本目だ。通算で60本近く打っていると聞いていたがプロは無理でも社会人野球ならば十分やれるのではないかと思った。それくらい緒方の実力は抜きん出ていて実際にリーグ一の強豪チームからも誘いがあったらしいのだが現在所属しているチームの監督は緒方の先輩であり、その父親に野球の手ほどきを受けた恩があるからチームが解散でもしない限り他チームへ移ることはしないと決めていた。試合は順調に進み6回まで来た。時間的に表裏の攻防で試合終了が濃厚な展開だ。4ー1でリードを保っているので裏の攻撃を2点以内に抑えれば勝利となるがその前の表の攻撃は9番から始まるので博之に3度目の打席が回ってくる。2打席目も真っ直ぐを芯で捕らえたがライトライナーに倒れた。最後の打席になるであろうこの回は変化球も交えて来るだろうと考えた。もう1本安打を打てば有終の美となる。そして出来ることならば緒方まで回したい。自分が塁にいて緒方の本塁打でホームインという構図ならさらに良い思い出になる。しかし9番打者はレフトフライに倒れた。博之は変化球をうまく打てるだろうかという不安が先に立ったが、3点リードの最終回だ。無心で打席に立つだけだと半分開き直り投手と相対した。初球は真っ直ぐのボール球。次は変化球でストライクを取りに来るだろう。インコースのスライダーかカーブに絞った。やはり変化球が投じられたが意図したのかすっぽ抜けたのかは分からないがカーブが外角のボールゾーンから中に入ってきた。態勢を崩されて顎が上がる。右手一本で掬い上げた打球はふわりと舞い上がり左翼手の前にポトリと落ちた。不恰好だが安打には違いない、これで3打数2安打、個人的には満足だが後続が倒れて緒方までは回らなかったが緒方は裏の攻撃を3人テンポ良く打ち取りゲームセット。博之の引退試合は勝利で無事に終わった。不安だった守りでも5回あった守備機会を無難にこなせたので胸を撫で下ろしてベンチに引き上げた。すると誰とはなしに胴上げをやろうと言い出した。在籍中のほとんどを裏方としてチームに貢献してきた労いであった。時ならぬ胴上げに相手チームも何事かと訝ったが事情を知ると胴上げの輪に加わってきた。まだ少し冷たさの残る春の夜風の中、男達の歓声がグラウンドに響き渡った。