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「はい、授業を始めます教科書を閉じて」
光彦先生の授業はいつもこんな風に始まる。
「これは私が小さいときに、村の茂平というおじいさんから訊いたお話です」
皆が言われたとおりに教科書を閉じて姿勢を正し教壇の光彦先生に注目しだすと、先生はおもむろに口を開き話を始めた。
産休に入った伊藤先生の代わりに臨時の教師としてこの学校に赴任してきた2ヶ月程前の挨拶では、体育館の舞台の上に立つ光彦先生の言葉を真剣に聞く生徒なんて一人も居なかった。
けれど最近では多くの生徒が光彦先生の国語の授業を楽しみにしているのが俺には分かる。 いや、楽しみにしているというのは言い過ぎかもしれないが、決してつまらなそうにはしていないし、寝ている生徒も居ない。なにより勉強嫌いだったこの俺が気付けば先生の話に夢中になっているのだから。
「昔は私達の村の近くの中山という所に小さなお城があって・・・ 」
「『ごんぎつね』だ!」
前の席に座る笠井という女子が光彦先生の話を遮るほどの大きな声を出した。
他のみんなも何かに気付いたようで教室内にざわめきが拡がってゆく。
「そうだそうだ『ごんぎつね』だ」
「懐かしい」
「小学校で習ったわ」
言われて初めて俺もピンと来た。 光彦先生が話始めたのは小学校の国語の授業で出てきた、たしか新美南吉の『ごんぎつね』だ。
「先生、どうして今更『ごんぎつね』なんですか? 」
教壇の光彦先生は皆の反応に満足そうに表情を崩した。
「じゃあ皆さんに聞くけどこの中で小学生時代、国語の授業で『ごんぎつね』を勉強した時にどういったことを教えてもらって、どういったことが自分の身に付いたかはっきりと覚えている人はいますか? 」
光彦先生の逆の質問に皆戸惑うばかりで声を上げる生徒は誰もいなかった。
「小学生の時には国語の勉強といっても漢字の読み書きや言葉の意味くらいしか意識して勉強なんてしていなかったって人がほとんどじゃないかな? でもそれから7年程経ち、友達や先輩後輩、親や教師、色んな人間関係を経験してきた今の皆ならもっと深く兵十やごんの気持ちも汲み取りながら物語を読み進めて行くことが出来るんじゃないかな? って思いましてね」
「俺覚えてるよ先生! ごん!!! お前だったのか・・・!? って」
調子の良い男子生徒の芝居掛かった言い方に教室には笑い声が広まった。
「そう、凄く上手だよ、今の言い方、 その一言にしても今の皆なら母親を亡くしたばかりで今度は自らの手でごんを撃ってしまったその時の兵十の気持ちをもっと理解出来るはずだと思うんだ」
「俺たちがやっと小学生レベルだってこと? 」
光彦先生は笑って話を続けた。
「人にはそれぞれのペースやタイミングっていうのがあるんじゃないかなって僕は思います。例えば人生を70年だとしましょう、その人その人によって身体が成長する時期も、勉強が一番身に入る時期も、何か好きな事に熱中する時期も、みんな一緒な訳がない。 だから今勉強が身に入らない人は無理に勉強しなくてもいい、まだ皆はこれから50年以上生きていくのだから、そのどこかで自分が " やらなきゃならない " って思った時に勉強すればいいんです。 それよりも今、自分が一番夢中になれることに時間を使った方がよっぽど身に入るでしょう」
「それで今の俺たちには『ごんぎつね』が丁度良いってのなら、先生やっぱり俺たちが小学生レベルってことじゃん」
教室がまた笑い声で明るくなった。
「皆が小学生レベルなんじゃなくてこの物語が不朽の名作なんだよ」
一段落が着いて再び始まった光彦先生の『ごんぎつね』の暗唱に今度は黙って皆が聞いている。中にはじっと目を閉じて聞いている生徒も居る。 俺は、というと " 一番夢中になれること " 光彦先生の言葉が頭の中で何度も俺自身に問い掛けて来て、とうとう兵十もごんも愛想を尽かせてどこかに行ってしまった。
出典 新美南吉「ごんぎつね」