後悔と希望 Ⅰ
十年間一緒にいた人に別れを告げたというのに、比較的自分が落ち着いていることに、和香子は気がついていた。涙だって、一粒も零れてこない。
いつもと同じように一日が始まり、いつもと同じように授業をこなしていく。居眠りをしている生徒を叱り、授業が終わると、生徒たちとおしゃべりをして笑い合っている自分がいる。
――あそこまで言ってやっても、きっと健人は今まで通り……。
確証はなかったけど、和香子は心のどこかでそんなふうに信じ込んでいた。
今までにも同じようなことはあったけれど、健人は突きつけられる肝心な問題を直視せず、するりと躱して、ある意味しなやかに生きてきていた。
何を考えているのか分からない……。それが健人の健人たる所以で、健人の魅力の一つでもあった。
だから、きっと今回のことも、健人はそうやってすり抜けてしまうだろうと思っていた。
和香子がマンションに帰ってくると、部屋の中は暗いまま、ひっそりと静まり返っていた。
ソファーの上には、健人の脱ぎ捨てられたシャツ……。
和香子はそれを手に取って、「ハァ…」とため息をついた。やっぱり思っていた通り、健人は全然動じていない。きっと今日もまた夜遅くになって、ひょっこりと帰ってくる。
……と思っていたけれど、その日、健人は帰ってこなかった。
それでも和香子は、健人が帰ってくると信じて疑わなかった。今までだって、健人がふらりと出て行ったきり、何日も帰ってこないことはあった。
健人の両親は離婚していて、父親は母国のイギリスにいる。日本人の母親は、和香子が彼と付き合い始める前に亡くなっている。健人が帰ってくる場所は、ここしかないはずだ。
しかし、和香子のそんなタカをくくった思考も、一週間も経てば揺らいでくる。
健人がいなくなって、もう一週間。和香子のマンションにはちょっと帰ってきた痕跡も見つけられず、電話もメール一本の連絡もしてこなかった。和香子の方から連絡を取ろうと思っても……、
「……そうか。健人の携帯は、この前ヤンキーに壊されてたんだっけ……」
「別れよう」そう言いだしたのは誰でもない和香子なのに、〝健人がいない〟ということが現実味を帯びてきて、にわかに焦り始めた。
毎日毎日、「今日は健人が帰ってきてるかも……」と思いながら、マンションの部屋のドアを開けてみても、そこに健人の姿は見つけられなかった。
彼の着る洋服や彼の使っていた歯ブラシもそのまま、彼が飲むためのビールも冷蔵庫に入ったままなのに、いつもそこにいた健人の姿だけがなかった。
――もう……、健人は帰ってこないんだ……。
そして、ひと月が経とうかという頃、和香子はようやくその現実を受け入れた。
心にぽっかり穴が開くというのは、こういうことを言うのだろうか……。
〝ストレス〟だと感じていた健人がいなくなってくれたのだから、もっとスッキリすると思っていたのに、和香子は眠れなくなった。
健人はどこに行ったのだろう?
本当にホームレスになってしまってるのではないか…。
それとも、あの容姿だからすぐに新しい恋人もできて、そこに転がり込んでいるのかもしれない…。
穴の開いた心は、いつも不穏にざわめいてしまって、和香子を眠らせなかった。